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by fishybusiness
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貧困という原罪

アフリカのサハラ砂漠以南の地域ではおよそ半数の人が1日1ドル以下での生活を余儀なくされています。またHIV感染者の7割がアフリカに集中してると言われます。
HIV患者の中には貧困から治療薬を手にすることができない人も少なくありません。
貧困の原因は一つではありませんが、もとを糺せばヨーロッパ各国による、原住民の民族性を無視した分割統治に行き当たるのでしょう。
白人による一方的な搾取と、支配が現在にまで禍根を残していることは明らかです。

ホワイトバンドプロジェクトは貧困によってもたらされる子供の死、わずかなお金があれば避けられる死を少しでも減らしていこうという国際的な活動です。
ホワイトバンドを身につけることで、貧困問題を考え、少しでも多くの人に問題を知ってもらうことが肝要でしょう。

周囲を見渡すと、私達日本人の生活は疚しさを覚えるほどに豊かです。
お金を出せば手に入らぬものは無いと思えるほどモノが溢れ、お金を得る手段も職も、いくらでも選択の余地があります。
しかしこの恵まれた生活を享受してる同じ瞬間に、飢えや病気から、幼い命が失われているのです。
私達一人一人は悲しくなるくらい無力ですが、だからといって見て見ぬふりが許されるとは思えません。
こうやってインターネットを使える環境にあるということは、世界中の情報を得ることができ、また世界中に発信することができるということなのです。
今何ができるのか、これから何をするべきなのか、それを考え話し合うために、ホワイトバンドは有用だと思います。


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参考:世界史の世界地図へのお誘いニュースで見るアフリカのエイズ問題

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# by fishybusiness | 2005-08-01 02:29 | 社会

不倫はなぜ不倫か

不倫とは何だろうか。
手元にある広辞苑の第四版には
 人倫にはずれること。人道にそむこと。「―の愛」
としか書いていなかった。
一般的な感覚だと、不倫という言葉は配偶者を持つものが、配偶者以外の異性と肉体関係を含む恋愛をすることを指すのではないだろうか。

大昔から恋愛自体はどちらかといえば善いものとされてきた。
少なくとも多くの物語によって恋愛は美化され、賛美されてきたように思う。
それは未婚の男女のみではなく、すでに結婚してるものが描かれることも少なくはない。

しかしなぜ配偶者を持つというだけで、人道に背くとまで言われるのか。
それはその恋愛が周囲の人間を深く傷つけるからに他ならない。
配偶者に浮気をされた者は深く傷つくし、信頼を裏切られたと感じるだろう。
それは修復することは容易ではないし、家族の他の成員にも悪影響を与える。
その深刻な事態を精緻に想像できる者なら安易に不倫はしないだろう。

現代の日本で不倫がさほど咎められないのは、恋愛の価値が高く評価されている反面、家族の価値が軽んじられているからではないだろうか。
恋愛は確かに素敵なことであるが、それは最も近しい家族を蔑ろにしてまでも追い求めるべきではないと思う。
その価値を逆転させてしまうことが人倫に外れることと言われるのではないか。

恋愛には様々な欲望や願望が込められるように思う。
それは時に現実逃避のように見えることすらある。
不倫をする前にもっと自分のことを愛せないだろうか。
自分に与えられた、かけがえの無いものを愛せないだろうか。
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# by fishybusiness | 2005-07-19 02:20 | 倫理
日曜日、久しぶりにテレビを見た。
ニュースを見ようと思ったんだが、時間が遅くやってなかったのでドキュメントを見た。
集団自殺について。

最近集団自殺が増えているらしい。
ドキュメント番組に取り上げられていた自殺志願者は一様に「消えてしまいたい」と言う。

死んでしまうと家族を悲しませる。だから始めからいなかったことになりたいと言う。

死んでしまいたいと言う人の気持ちはある程度想像できる。
生きるということは苦しむということとほぼ同義だとも思っている。
皆いつか死んでしまう。なのにどうして自分でそれを選んではいけないのか。

中島義道は近しい人を悲しませるから駄目だと言う。
それは正しいと僕も思う。

だから生きることから逃れたい人は死にたいというよりも消えてしまいたいと願うのだろうか。
後に死体を残すことなく、近しい人の記憶にも残らずに消えてしまいたいと願うのだろうか。

しかし人間は消えてしまうことなんてできない。
誰の記憶にも残らずに、一つの自我を形成することは適わない。
消えてしまいたいというのは非常に甘えた望みであるとしか思えない。
生きることから逃れるなら、自分の大切な人を死ぬより辛い目に遭わせるのだと自覚して、その重荷を背負って死ねばいいと思う。
それができないなら生きるしかないだろう。

人は消えてしまうことなんて出来ない。
死ぬ覚悟ができないなら生きろ。
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# by fishybusiness | 2005-07-11 01:38 | 事件

時間について

私達は普段時間の中に生きている。
時間は止まることなく、一定の速さで流れるものとされている。

工場では限られた時間にどれだけの製品を生産することができるかに腐心する。
労働者は、決められた時間を働きそれに応じた給与を受け取る。
消費者はサービスを買い、時間に比例してその料金を支払う。
時間は人を成長させ、老いさせ、やがて死に至らしめる。

しかし、私が生まれてから間断なく流れ続け、常に意識される時間というものを私は見たことがない。
時間とは何だろうか。

我々は時間を知ろうとするときに時計を見る。
生活の中には多くの時計がある。
パソコンの中、壁、棚の上、携帯電話、カメラの中、キッチンタイマー。
しかし一体何を計っているのだろうか。

現在最も正確な時計はセシウム原子時計であるとされる。
「秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」と定義されている。

今こうしてパソコンに向かっているときもセシウム原子は私達の時を作り出している。

しかしどうしても、セシウム原子などという目に見えない、触れられないものに時を定義されるのは素直に納得することができない。
原子が放射線を出そうと吸収しようと、そのことが植物を生長させ、動物を産み落とす訳ではない。
時間とは人が約束をするためのものではなく、命を司るものであるはずなのに。

両親から生まれ、成長してきた今日までを数字に置き換えることには意味を見出せない。
「人生は後ろ向きに理解されるが、前向きに進んでいく」
キルケゴールの言葉に時間を触覚的に理解するヒントがあるように思える。
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# by fishybusiness | 2005-05-15 03:10 | 哲学
23日の夜、毎日新聞から発信されたネット上のニュースの見出しである。
事件の概略は40歳の母親の運転する車から、20歳の娘が口論の末飛び出し、それを放置した母親が道路交通法の救護措置義務違反で逮捕された。
娘が車から飛び降りたときは時速50キロから60キロで走行していたそうだ。
10分後後続車が見つけて119番通報したが、首の骨を折っており、翌日未明に死亡した。
この母子は別々に暮らしていたという。

まずこのニュースを見た時に我が目を疑う人が大多数なのではないか。
少なくともどこかに事実と違う部分が含まれていないと納得はできない。
普通に考えて50キロで走ってる車から、自分でドアを開けて、飛び降りる人はいない。命の危険が迫ってでもいない限り。
そして走ってる車から、我が子が飛び降りて、それを放置する親はいない。
2重の意味で信じることができないニュースである。

母親が娘を殺害する意思を持って車から放り出し、それを隠すために虚偽の申告をしているのならまだマシだと思える。
しかしそこに書いてあることが全て事実だったらどうだろうか。
想像するのが恐ろしいことである。

人間はどこまで他者に対して無関心になれるのだろうか。
想像力の欠如と無関心の先にあるのは、このような痛ましい事件であるとしか思えない。
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# by fishybusiness | 2005-04-25 03:35 | 事件
テレビニュースで凄惨な事件を知らされるたびに問うてきたことである。
何故彼(女)は罪を犯し、私は犯していないのか。

社会学的に答えを導くことは容易である。
究極的には一言で答えることもできる。

「育った環境が違う。」

しかしそれでは納得することができない。
納得というより安心と表現したほうが正確だろう。
つまり環境が違えば、私も彼と同じことをしていたかもしれない。
そのことを思うと恐ろしくなる。
今は誰かを殺めることがなくても、環境が変われば私はそれをするかもしれない。
そのことを否定することができない。

自己と他者とは明らかな隔たりがあっても、私と彼とを隔てる明確な違いはどこにも無いのだ。
唯物論的に考えれば水と炭素を主成分とする塊に過ぎず、民俗学的に考えれば同じ日本人なのだ。
何故私は彼でないのか。

犯罪者になることが怖いのではない。
自分をも含めた他者の命を、想像力を欠いたままあっさりと奪ってしまう、そのような行為をすることを畏れるのだ。
また近しい人が奪われることも。
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# by fishybusiness | 2005-04-23 02:17 | 哲学

「御前会議」青年団

平田オリザ氏の主宰する青年団の第48回公園「御前会議」をこまばアゴラ劇場で観劇する。
上演時間は約1時間20分だったが、全く飽きさせることのない、緊張と興奮に満ちた舞台だった。
 
開演時間前から役者が舞台に出入りし、短いセリフを交わすのは平田氏の昔からの手法であるが、やはり客席と舞台の関係を考えるきっかけとなる。
隣に座る友人に話しかけることが、疚しいことをしているような不思議な感覚に囚われる。

舞台装置はリングのようなアーチ型のテーブルとイスのみ。
8人の出演者が向かい合い延々会議をするのが主な内容だが、議題も参加者の身分も不条理である。
いかにも普通のサラリーマン、OL然とした男女が仕事帰りに集まり世間話をするところから照明が消され扉が閉じられる。
参加者の大部分が集まったところで会議は始まるが、駐輪場の整備や賞味期限についてと同列に世界とは何か、人間は何のために生きるのか、来週に迫る宇宙人からの侵略にどう対処するのかということを延々と議論する。
その間にも参加者間での不倫関係が影を落とし進行を妨げる。
しかも彼らは戦争の渦中にある国の、責任ある立場の人々であるようだ。

何もはっきりしない、そのような曖昧な人々の中で、異彩を放つ人物がほぼ中央に座っている。
人形なのだ。
参加者8人のうち7人は役者が演じているが、1人だけは人形が演じている。
マネキンのような人形でなくビニール袋に布を詰めて服を着せただけのような、人に似せる努力をされていない人形である。
他の参加者はその人形を人として同列に扱う。
むしろ一般の(役者が演じている)参加者よりも気を遣いながら、時々どうでもいい話題を振って、あるはずのない反応を注視する。
明らかに天皇のメタファーであり御前会議の由縁である。

率直な感想を述べればとても面白い。
未だに青年団は新しい演劇を創り続ける力を持っていると改めて感じた。
平田氏によって提示された一つの日本人観は議論に値するだろう。
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# by fishybusiness | 2005-03-24 02:30 | 演劇