哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

右翼だとか左翼だとか

先日あるパーティーに出席したところ、今は引退された高名な政治家の先生にお会いしました。
私は得意になって、パーティーの後に父へ電話したのです。
「今日こんなに立派な人にお会いしたんですよ。」
と私が話すと、父は
「あいつは右翼じゃないか。僕は彼を尊敬はしていない。」
という答えが返ってきました。

この遣り取りで気付いたことがいくつかあります。
まず私の父の世代、所謂団塊の世代には年長者を敬うという感覚が弱いのではないかということです。
私は自分の親ほどの年代の人に対して、譬え気に入らないとか憎んでいたとしても、あいつと呼んだりはしないでしょう。
そしてもう一つは父は左翼なのだということです。
私の認識からすると、私のお会いした元政治家の先生は保守です。
そして保守と思しき人物を右翼と認識するのは、相対的にその人が左翼なのでしょう。
右派と左派は、飽くまで相対的な分類なのです。
団塊の世代は、もちろん全てではないでしょうが、伝統の喪失と相対主義の蔓延した社会の中に育まれたのでしょうか。

これから先の20年30年を考えると、一時的に失われていただろう伝統を、私達の手で取り戻さなければならないと思うのです。
その為には、たとえ右翼と言われようとも、保守を貫く覚悟を以って事に当たりたいと思います。
[PR]
# by fishybusiness | 2007-01-17 06:28 | 社会

50年経過

シベリアに抑留された方々が祖国に還り、半世紀だそうだ。
「まだ」50年しか経っていない。

僕の祖父もシベリアに抑留されていた。
黒竜江の河岸で、陸軍の通信兵として従軍していた祖父は、ソビエトと河を挟んで睨み合っていたのです。
そしてある日、不可侵条約があったにも関わらず、前触れもなくソビエト軍は満州に侵攻し、祖父らを捕虜として捕らえ、極寒のシベリアで強制労働をさせたのです。
幸いにも祖父は生還して、祖母と結婚し父と叔母を育て、僕と弟とをこの世に生み出し、存在させてくれました。
本当に幸運で、喜ばしいことだと思います。

しかし残念ながら、抑留されたシベリアで命を落とされた方々も多くいます。
祖父に聞いた話では、死体を埋葬しようにも、土が凍っていて穴が掘れないのです。
だから焚き火をして、土を溶かしてから仲間の遺体を埋めたそうです。
突如侵略され、捕虜として不当に労働させられた祖父らの苦労を偲ぶと、涙を禁じ得ません。
本来戦争すらしてなかった外国に囚われ、命がけの劣悪な環境で労働させられたのです。

生きることは誰にとっても命がけかもしれません。
しかし、働くことは、全ての労働が命がけというわけではありません。
むしろ、命を危険にさらす仕事のほうが少ないでしょう。
しかし、シベリアでは全てが命がけであったと思うのです。
軍人や自衛官や、警官や消防署員は、国民の生命財産を守る為に、時に命がけになって働いてくれます。
それはしかし、自分を育んでくれた日本という国の為だから命をかけられるのだと思います。
全く関わりのない、卑怯で非人道的な外国の為に、それでも命がけで働かなければならなかった、被抑留者の苦労を想像すると、居た堪れないのです。

祖父は死ぬまで「ソ連はずるい、あんな国と付き合うべきじゃない」と言っていました。
尤もだと思います。

今も被抑留者がご健在であるなら、僕はその方々の為に何かお役に立ちたいと思うのです。
そして、不幸にも命を落とされた方々を偲び、靖国に手を合わせたいと思います。
そこには祖父と共にシベリアで共に苦しみ、もしかすると祖父の命を救ってくれた方が祀られているのかもしれません。
全ては私の心の内の問題ですが、それでも靖国神社があるからこそ、その方々へ感謝の気持ちを向けることができるのです。

本当にありがとうございます。

僕は幸いにも、中学生か高校の時に話を聞くことができたのです。
ソ連と睨み合って、お互いが満州とソ連がどのように素晴らしい国か、ネオンのサインボードやラジオで諜報合戦をしたそうです。
戦闘機からの機銃掃射に遭った話も聞きました。
今は祖父と話ができて本当によかったと思うのです。
亡くなってから10年になりますが、未だにシベリアのことを思うと、涙が出てきます。

正直に云って、私は国としては中国も韓国も好きではありません。ロシアに至っては云うまでもないですね。
しかし中国人でも韓国人でも、お互いがお互いの話を聞く気持ちを持てば、いつか必ず理解し合えると思うのです。
自分の祖父を大切に思う気持ちが、同じ人間に通じないはずはないと思うのです。
人間はそもそも非道な存在ではないと思います。
悲しい時代や歪な組織が、人間の人間性を損なってしまうのだと思います。
私達はこんなにも平和で恵まれた世に生きているのだから、せめて祖父の世代よりも、より人間的に生きていかなければと思うのです。

もっと祖父のことを知りたいと思ったので、田舎の祖母に電話してみました。
忘れないようにここに書きこんでおきます。

祖父は戦時中は家族と共に大阪にいたそうです。
やがて召集され、関東軍へ入隊し、黒竜江の河岸で通信兵として警備任務にあたっていたようです。
そしてポツダム宣言受諾の直前に、ソ連が侵攻して来て祖父は捕虜として捕らえられます。
おそらく何の説明もないまま、シベリア鉄道に載せられシベリアへと運ばれました。
祖父は「何日も汽車に乗せられ、どこに連れて行かれるんだろう」と不安に思っていたそうです。
シベリアでは劣悪な環境の下に、伐採の仕事などをしていたそうです。
祖母の記憶が確かなら昭和23年に祖父は帰国が叶いました。しかしそれは材木の伐採作業中に足を怪我したから、多くの人よりも早く帰れたのだそうです。(怪我のせいで正座は難しくなってしまったそうです)
京都の舞鶴港へ、曽祖父が迎えに来たそうです。
その時の祖父は、栄養失調で顔が真ん丸に腫れてしまっていたそうです。
帰国後は、シベリアでの伐採や製材という経験を皮肉にも活かして、知り合いと共に松山の中央製材という製材所で働いていたそうです。
25年にいわゆるお見合いおばさんの引き合わせで祖母と結婚しました。
孫の僕にもシベリアの話をしたくらいだから、祖母に至っては嫌になるくらいシベリアの話を聞かされたそうです。
そして本当に嫌になって、もうシベリアの話はしないでくれということになったそうです。
どうしても話さずにおれないほど辛いなら、それを乗り越えるために何とかしようとしたそうです。
そしてシベリアに行くことは叶わないでしょうから、帰国した舞鶴へ、祖母と祖父は旅行したそうです。
この場所を見て、もうシベリアのことは忘れてくれと、祖母は祖父に頼んだそうです。
しかし、決して死ぬまで忘れることのできない経験だったのでしょう。
実際に、数年前までは被抑留者の方が、時々祖父に連絡を取ろうと手紙をくれていたそうです。
祖母は、死んだことをすぐに告げられずに、何年か後にやっと電話して祖父の死を伝えたそうです。

東京に住むようになって、初めて靖国神社を訪れました。
境内の献木や貢献されたベンチなどには、部隊名や艦船の名や工廠の名が書かれていました。
その中に、シベリヤ抑留者団体の名前も見つけたのです。
だから、戦後長生きして病気で亡くなった祖父であるけども、もしかすると英霊になっていたかもしれないし、そうすれば自分も今はいない訳だし、共にご苦労された方々を、決して粗末にはできないのです。
[PR]
# by fishybusiness | 2007-01-13 01:51 | 社会

全ては一である。


奇しくも昨日は1月11日。1と云ふ数字の並ぶ日でした。

「一」を「いち」でなく「いつ」と読むのは哲学を遣っている者の自己満足と云ふか、趣味の世界でしょうね。
完全であることを「全き某」とか言うのも私の好む表現です。
親と話す時にも同類の言葉を遣うのですが、「わざと難しい言葉を遣って、自分の知識をひけらかしたいのだろう」と言われました。
違うのです。
少なくとも自分の親へ向けて知識をひけらかして何の得があるでしょう。
それは言葉を真摯に遣いたいだけなのです。
「名言」と「金言」と「箴言」が夫々少しずつ意味を異にする様に、私にとって「完全な形」と「全き形」は意味を異にしているのです。
少しでも私の思念を表現しようと苦心して、少しでも実情に近い言葉を選ぼうとして、結果的に日常会話の域を出る言葉を多用して仕舞うのです。

前置きが長くなりました、今日のテーマは「全ては一である」と云うことです。
しかしこの事について説明をすると、説明しただけ事象が細分化して仕舞うので、理解するのでなく経験するしかないのだと思いもします。
最近よく学友と話すのですが、「身体」と「精神・心・意識」と「魂」とは別様に捉えることが可能ではあるが、それらは本来一つのものであるのです。
Dimensionと云う英単語がしっくり来るのですが、身体もこころも、人間のある側面しか捉えては居ないのです。
全体を描写する巧い言葉は無く、しかも本来的に言葉という記号に変換することが不可能な存在が人間や生命であると思ふのです。

(この文章はmixiで公開した日記を一部改訂して投稿しました。)
[PR]
# by fishybusiness | 2007-01-12 03:10 | 哲学

大切にすべきもの

沢山在り過ぎて、勿論全てを挙げることは不可能なのですが。
其れでも最近改めて確信したことを簡単に書いて置こうかと思います。

利己と利他は根源的に一であります。
自己を放棄して他者へ関係することは不可能だからです。
先ず自分を大切にすることは、全ての前提なのです。
だからこそカントは自殺の禁止を義務としたのでしょう。

そして自己の次に尊重すべきは何なのか。
矢張それは家族なのです。
自分を産み育ててくれた両親と、共に生きてきた兄弟と、それらの前提である祖父母先祖と、私の産み育てる子供達なのです。
少なくとも同じ屋根の下で暮らす家族が不幸では、自らの幸福も望めないのです。
私の幸福の為には、最小の範囲で、共に寝起きする家族の幸福が不可欠なのです。
それは徐々に拡大し、叔父叔母、従妹、それらの親兄弟へと人数を増していくべきなのです。
それは次第に隣組、町内会、市区町村、都道府県、国家を経て人類へ普遍すべき広がりの起りでもあります。

人類全体の幸福が成されなければ私の幸福も在り得ないと云ったのはアリストテレスだったかと思います。
2000年以上前から知られている、倫理の基本なのです。
しかし、現代の日本では半ば失われていると感じられます。
私達の手でそれを取り戻さなければと思います。
共時性に拘り、通時性を失った現代に生きる我々の、それは義務であるとすら思うのです。

(この文章はmixiの日記を一部編集して転載しました。)
[PR]
# by fishybusiness | 2007-01-08 04:12 | 倫理

対話の不可能性

彼の国は何を望んでいるのだろうか。
アメリカとの二国間協議が目的であると報道されているが、それが本懐なのであろうか。
六カ国協議を拒否し、アメリカだけを名指しするのは何故なのだろう。
私には彼の国の指導者の目論見が読めない。

そもそも国家間協議とは対話である。
自国の望むことを夫々表明し合い、妥協点を模索する営みである。
それが二国間であろうと多国間であろうと、本質的な違いは無い。
ただしアメリカとの対話を最重要することについては理解できる。
今日世界で最も攻めて来そうな国はアメリカを置いて考えられない。
北朝鮮が六カ国協議を避けるのは、妥協点が不利になると考えてのことだろうか。

しかし彼の国の外交は、主に他国から援助を引き出すことを目的としている。
自国の主張ばかりを繰り返し、他国の主張を全くと言っていいほど無視してしまう。
ミサイルを撃ってみて、これ以上撃って欲しくなければ援助しろと。
核を作ってみて、完成させて欲しくなければ援助しろと。
核実験をしてみて、落とされたくなければ援助しろと。
このような稚拙な駆け引きに、いつまで付き合わされるのだろうか。
現状までエスカレートしてしまった以上、対話は放棄すべきではないか。
国際社会は十分に門戸を開いてきた。
それを叩かなかったのは北朝鮮である。

対話を放棄すれば残された道は戦争しかなくなる。
しかし、今日まで戦争を避け続けてきた結果が先の核実験である。
戦争は何等利益を齎さないかもしれない。
しかし、戦争を放棄することの不利益は回避できるのではないか。
最早対話の可能性は失われたのだろう。
アメリカに求めることができるとすれば、二国間協議ではなくて、多対一の戦争を主導してくれることである。
季節は戦争へと移ってしまった。
一日も早く、この悲劇が終わることを切に願う。




Excite エキサイト : 国際ニュース
[PR]
# by fishybusiness | 2006-10-10 00:00 | 社会

身体についての雑感

我々にとって身体とは何だろうか。
所謂健常者であれば、自分の四肢を自由に動かすことができる。
或いは自由に動かすことができるのだと思っている。
しかし限界もある。
関節は逆向きには曲がらないし、100mを5秒で走ることも不可能だ。

「親から貰った身体に傷をつけることはできない」という言い回しがある。
本当だろうか。
我々が今、こうして使役している身体は親から授けられたものなのだろうか。
出生の瞬間は私を形づくる殆どのモノが母親から譲り受け、引き継いだものだろう。
しかし、10年、20年と生活をして、日々の糧を自分で選択し、獲得してきたこの身体は、最早自分のものでしかないのではないだろうか。

もし両親が、私の身体を、私のものだと認めてくれるのならば、私は私自身の為に、最大限の利益を私の身体から得たいと思う。
では私の身体が私に与える最大の利益とは何だろうか。

身体によって快楽を得ることは一つの利益だろう。
美食やセックスによって得られる快楽は非常に甘美なものである。
しかし快楽に身を委ねることが、身体の最高の使用法なのだろうか。

人間には五感と呼ばれる感覚が備わっている。
そして五感には数えられないような、繊細な感覚も存在する。
それらを極限まで発達させ、世界の在り様を感受することが、身体が行う最も善いことではないかと思われる。
あらゆる障壁を退け、全き感受性で世界と触れ合うことが、身体の使用方として最高のものである。
今日の私はそう信じている。
[PR]
# by fishybusiness | 2006-09-18 14:38 | 哲学
本当はこのことについては書きたくなかった。
著名な作家の文章に対して、私如きが批評をするなど僭越であると考えている。
しかし、同じ文章を読んだ多くの人が、書き手の意図を酌んでいないと感じられた。
私が抱いた感想と、全く別な方向に感じる読者が多すぎるように思った。
それはどうしてなのだろうか。
ここ数日考え続けていたことを、以下に書き記す。

『坂東眞砂子女史のエッセイ「子猫殺し」について』

この文章は論理的に破綻しているという人がいる。
確かに難解で、誤解を招きやすい構成ではあろう。
しかし、それもレトリックではないかと思える。
高名な作家である彼女が、論理的な過ちを犯したとは思い難い。
おそらく混乱しているのは、彼女ではなく我々の社会なのだ。
現代社会こそ論理的整合性を欠いているというメタファーではなかったのか。

だからこそ、読み手はもっと素直になるべきだ。
そして感情に流されることなく、冷静に要旨を読むべきだ。
坂東女史は何故子猫を殺すのか。
これははっきり書かれている。地域社会への責任を果たすためだと。
猫が無秩序に繁殖しては人間の生活環境を侵害する、だから増えすぎないように殺すのだと。
実に論理的な回答である。
これを好しとしない人からは猛烈な抗議が寄せられる。
他に選択肢があるのに、どうしてそちらを選ばないのかと。
つまり去勢/不妊手術を示唆している。
そしてなぜ手術をしないかという問いにも、坂東女史は明確な回答をしている。
彼女は猫に不妊手術をすることが納得ができないと書いている。

〈人が他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。〉

〈〉内は引用である。
坂東女史がかぎカッコつきで「生」と書いたものは、本能とか性(さが)とかいった意味を含んでいるだろう。
そして、どうして彼女以外の他人が、彼女の決定を批判できるのか。
他の生き物を尊重する態度が、どうして生命を軽視することになるだろうか。

命は等しく尊いものであると私は考えている。
しかし生きていればそれだけで尊い訳ではない。
命は自然に与えられるものであり、自然に奪われるものである。
その命のかたちを、人間の都合によって歪めてしまってもいいのだろうか。
それならいっそ殺したほうが、ある意味で命を尊ぶことにはならないだろうか。

私たちは多かれ少なかれ他の命を奪って生きている。
他の生命を喰らって生き延びている。
しかし、そのことに伴うはずの他の生命の死は、巧妙に隠されている。

私たちは何をしてはいけないのだろうか。
どれほどの人と、それを共有できるのだろうか。
[PR]
# by fishybusiness | 2006-08-30 01:46 | 社会

尊厳死についての小論文

ご理解の上でお読み下さいお断り

 尊厳死を認めるか否かという議論は、現在ある程度まで認められている尊厳死の権利を、誰に奪うことができるだろうという疑問に突き当たる。
そもそも尊厳死は功利主義的な幸福量の増加という観点から妥当であると考えられる。
苦痛から解放される本人の幸福、また「苦痛を訴える患者を見守り続けるという苦痛」から解放される家族の幸福、それら幸福の増加という点から倫理的には良いと考えることができる。
ただし問題となるのは自殺との兼合いである。
延命の放棄、意識的な死の早期化は自殺の嘱託と変わらないとも言える。
しかし一般的な自殺が突発的であるのに対し、安楽死、尊厳死の場合は本人、家族、医師らの間で話し合いが行われることを原則としている。
関係者が納得した上での安楽死、尊厳死であれば、近親者が自殺した場合のような強い精神的ショックを受けるものは少ないだろう。
他者に与える悪影響という点では、自殺の非倫理性を解決していると言える。
だが、そもそも命を終わらせることに、明確な意思を持って人間が関わってよいのかという問題もある。
与えられた命を終わらせることは、一個の生命として僭越なことであるという考え方もある。しかし延命が僭越でないのであれば、死を与えることも同じではないだろうか。
自然を最上の価値とするならば、人間は既にその価値を放棄しているのだろう。
我々に残されている判断の基準は、結局功利主義でしかない。
疑問や居心地の悪さは計量できないが、幸福は計量できるものと認められている。
どうやってそれに逆らうことができるだろうか。
尊厳死は認められないというグループの主張は以上の観点から反論できる。
つまり尊厳死を自然でないと言っても、医療がそもそも不自然であるのだから、その延長線上にある一点のみを糾弾しても無駄であると。
自然を求めるなら全ての医療行為を放棄すべきである。
また関わる医師などスタッフの苦悩、苦痛が問題にされるが、彼らには選ぶ権利がある。
医師以外の仕事も選べるし、終末期でない医療分野もある。
彼らが尊厳死に関わるのは、積極的、または消極的にそれに関わることを望んでいて、また受け容れているからである。
尊厳死を望む患者や家族にとっては、尊厳死以外に苦痛を軽減する選択肢を見出せないという状況から、優先されるべきは患者と家族の幸福であると考えられる。
しかし安楽死はともかくとして、尊厳死とは一体どういう意味だろうか。
「尊厳ある死」という意味であるならば、「尊厳の無い死」とはどんな死だろうか。
私は少なくとも全ての人間の死には尊厳があると感じる。
それは不幸な状況によって忘れられることがあるかもしれないが、決して失われるものではないと思う。
[PR]
# by fishybusiness | 2006-05-24 10:44 | 論文

情報について考える

今日テレビのニュース番組で温暖化について話してるキャスターを見た。
今年は温暖化の影響で海月が異常発生するそうだ。
しかし、それはどの程度的を射ているのだろうか。

テレビや新聞を見ていると、温暖化という言葉に触れない日はまずないだろう。
わが国の首相はジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて来賓に会ったりしているが、どれほどの意味があるのだろうか。
冷房の設定温度を下げる、消費電力が低下する、しかしそれが温暖化防止に繋がるのだろうか。
日本の電力は石油、石炭、天然ガスから発電されるものが62%に上る。
確かに発電量を抑えれば二酸化炭素の排出量は抑えられるのだろう。
しかし温暖化の原因が温室効果のある二酸化炭素の排出に拠るというのは、本当に信憑性のあることなのだろうか。
トラクバック先によると温室効果ガスの97%は水蒸気であって、二酸化炭素の気温に与える影響は3%以下ということになる。
それ以外にも温暖化については科学的に実証されてない部分が少なくないようだ。

化石燃料といわれる石油についても、実は生物の化石ではなく枯渇の心配はほとんどないという有力な説もある。

我々は毎日ように環境問題についての情報を浴びせられるが、その情報の信憑性を一つ一つ調べることは不可能だ。
政治的な問題になると露見するように、新聞もテレビも時には異常とも思えるほど偏った報道をしかねない媒体であることを忘れてはならない。

情報の物量にのまれることなく、何が正しい情報なのかを常に意識していないと、いつのまにか情報に踊らされることになりかねない。

「いんちき」心理学研究所
[PR]
# by fishybusiness | 2005-08-20 00:49 | 社会

誰を責めればいいのか

16歳わが子死なせ隠す 横浜

 生まれたばかりの赤ん坊の口をふさぎ、遺体を自宅のガスメーターに隠していたとして、神奈川県警磯子署は五日、死体遺棄の疑いで横浜市磯子区、アルバイトの少女(16)を逮捕した。
 調べでは、少女は三日午前三時ごろ、自宅のトイレ内で女の子の赤ん坊を出産したが、泣き声で同居している家族に知られてしまうことを恐れ、女の子の口をふさいで死亡させた。その後、同日午後二時ごろ、赤ん坊の遺体をポリ袋に入れ自宅ガスメーターの中に遺棄した疑い。
 遺体は四日夕、母親に発見された。同署は殺人も視野に少女の調べを進める。
(産経新聞) - 8月5日



またかと思う。
どうしてこのような痛ましい事件は無くならないのか。
この事件の場合にはいくらでも防ぐ手立てがあったはずなのに。
どうして母親は娘の妊娠に、臨月まで気づかずにいられるのか。
きっと気づいていながら気づかないふりをしていたのだろうけれど。
少女の母親は娘の妊娠をどのように考えたのだろうか。
自分の見えないところで処理してくれればいいと思っていたんだろうか。
16歳の少女はアルバイトもしていたし、妊娠したからには当然相手の男性もいたことだろうし、決して他者との関わりが希薄だったわけではない。
なのにどうして誰も孤独な出産と子殺しを防いでやれなかったのか。

やはりこの事件の一番大きな要素は母子の関係にあるのではないか。
最近は人に迷惑をかけなければ何をしてもいいという親が少なくないように感じる。
そこに絶対的な善悪の基準は無く、第三者の視点が基準にされる。
少なくともそれは、親としての責任を放棄していると思う。
セックスしても、妊娠しても、中絶しても、誰かが迷惑に感じなければそれでいいのだろうか。
何を大切にしなければならないのかを、どうして教えてやれないのだろうか。
16歳の少女には自分で善悪を判断する能力が無かったのだろう。
人は一人で行動するようになれば、当然自分で判断することを迫られる。
何が正しく、何が誤りかを自分で判断できないと一人では行動できないはずである。
16歳にもなってその能力を欠いているというのはどういうことなのか。
自らの責任で何かを選ぶことを全く行ってこなかった結果なのか。

誰を責めればいいのか分からないが、もう二度と同じような事件が起こらないことを願う。
他に何ができるだろうか。
[PR]
# by fishybusiness | 2005-08-07 02:34 | 事件