哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
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現代に於ける哲学の方法

今日哲学を遣ると言えば何を指示するのだろうか。
大学の哲学科で学ぶことだろうか。
大学院で哲学を専攻することだろうか。
市井で哲学書を読み耽ることだろうか。
私はどれも定義として不完全であると思う。

哲学とは孤独な思索と、他者との対話を必要とする。
孤独な思索は何処に於いても可能だが、他者との対話が今日では困難に為ってしまった。
全ての人間が互いに全き他者でありながら、膨大な数のカテゴリーに属し、同質者として他者性を捨象した関係を維持している。
現代人は他者を畏れているのだろう。
他者との関わりによって、自己の定立が脅かされることを畏れているのだろう。

しかし哲学を遣る為には他者を求めなければならない。
仮に大学の哲学科に居たとしても、同じ学科、同じ大学の人間は、全き他者と成り得るだろうか。
可能性はあるだろうが、それは楽観できるほど高くはない。
私達は、出来るだけ自分と隔てられた者との対話を求めなければいけない。

皮肉な事に、インタネッツを始めとした情報処理技術が、他者との紐帯と成ってくれるようだ。
匿名の掲示板、実名のコミュニティスペース、そして無料の音声通話ソフト。
これらが組み合わさって、私達は全き他者と繋がることができる。
もし現代に哲学が可能であれば、そこから新しい哲学は生み出されるのだと、私は信じることができる。
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# by fishybusiness | 2007-01-30 13:39 | 哲学

「キレる」とは何か

所謂「キレる」と云うのは突如として怒りを爆発させることを云うのだろう。
昔は「切れる」と云うのが、頭脳明晰である事を示す一種の褒め言葉であったのだが、今はポジティブな意味は微塵も感じられない。
物量に因る言葉の侵略と呼ぶべき事例ではないだろうか。

さて、現代の意味のキレる事とキレない事を別つものは何かと考えると、繊細さが分水嶺ではないかと思う。
つまり、有り体に言って、キレる人と云うのは怒りの表現が一つしか無いのではないだろうか。
それは恰もコンピューターの二進法の様に、怒っているか怒っていないか、どちらかしか無いような人間が怒った時に、「キレた」と言われるのではないだろうか。

つい昨日のことだが、私も怒りを覚えることがあった。
駅まで歩いている道すがら、不動産屋の前を通った。
そこで不動産業者は歩道に半分営業者を乗り上げ、其れに乗せるのであろうお客二人と共に、歩道を完全に塞いで居たのだ。
此れでは通れないと思った私は、その業者に向かって「通っていいですか?」と不快感を表しつつ聞いたのだ。
そうすると彼は「どうぞ」と、私以上の不快感を示しながら道を空けた。

赦されるなら私はいい歳をしたその不動産業者を蹴っ飛ばしてやりたいし、怒鳴りつけてやりたかった。
しかし私はそれをしなかった。
何故だろうか。
それは誰の利益にも為らないと、自明であったからである。
確かに怒りは覚えたが、怒りで計算が働かなくなるほどではなかったのだろう。
そして私の感じた怒りは、「通っていいですか」という、やや慇懃無礼な言葉にしっかりと込めてやったのだ。
この場合はこれが適切であったと今でも思える。

事情が変われば私はまた違った怒りの表現をするのだろう。
暴力に訴えることは稀だと思うが、時には大声を上げるくらいのことはする。
私は怒りを表現する方法を複数知っているし、感受に関しても表現に関しても、ある程度繊細であると思う。
感じる怒りのレベルを10や20は持っていて、それぞれ異なった表現ができたなら、彼は「キレる」人とは言われないだろう。

問題は後天的な繊細さの素養であると私は思う。
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# by fishybusiness | 2007-01-28 05:57 | 社会
『同情による生命倫理へのアプローチ』と題した以下の論文は、平成18年の12月に、ある大学の懸賞論文として発表したものです。
その他[論文]にカテゴライズした一連のエントリーについて、平成19年の3月現在、著作権を有しているのは、著者である私個人であります。
以下の論文と、ブログ上の全ての文章について、無断で引用、転載することを固くお断りさせて頂きます。
もし引用や転載をご希望の方が居られましたら、ひとまずこのエントリーに対してコメントを下さるように御願い致します。
付け加えて、ブログ上の文章を、印刷すること、クリップボードを含めて一時メモリやHDDなどに保存することはご遠慮願います。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 10:01 | 論文
ご理解の上でお読み下さいお断り

 生命倫理の問題について、カント倫理学に依拠して回答を試みた。現在話題となってる生命倫理の諸問題を網羅するものではないが、一つの価値観を提示することとなればと思う。
 特にパーソン論と人工妊娠中絶との関わりには興味があり、2~3章で続けて論じてある。そもそも中絶は殺人であるという立場から、パーソン論の不気味さを改めて提示することができればと思う。生命倫理に関わる態度として、胎児から脳死者とその家族までもを含めて、同情することによって功利主義を超越した倫理を導出することを試みた。そして短期的な人間の利益よりも、自然であることにより高位の価値を置き、私たちが生得的に持っている感性を重用するべきだと考えている。感性を失うことが、つまりは倫理の喪失にも繋がるのではと思い、あえて感情的に倫理問題を扱うこととした。
QOLという言葉が良く使われるようになったが、末期医療や安楽死との関わりも深いように、質の高い生を生きる為には、適切な死を迎える必要がある。そして適切な死とは一体どのような形をしているのかということを問いたい。それが延命治療の末の植物人間でないことは確かだが、私たちはどこまで医療に主体的に関われるのだろうか。長く生きる為の医療と、良い状態で生きる為の医療を、切り離すことはできるのだろうか。
私たちが何を選ぶべきで、或いは何を選ばないべきなのか。同情に倫理の基礎を見出して、社会の連帯を考えることも可能だろうか。人間が、本当に人間らしく、しかし他の動物とも協調しつつ生きるには、何を最も大切にしなければならないのか。それが見つかれば多くの問題は氷解するのではないだろうか。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:55 | 論文
ご理解の上でお読み下さいお断り

〔序論〕
 
現代に生きる我々は、医療技術の進歩によって様々な恩恵を受けている。しかし、医療技術の進歩は、寿命を伸ばし、クオリティ・オブ・ライフ(以下QOLと略す)を向上させるだけに留まらず、新たな生命の誕生や死の定義にまで関わる問題を提起するに至っている。
クローン人間を極北として、再生医療でのクローン技術の実用化が着々と進んでいる。そして羊水診断から続く優生思想による出産の選択は、着床前診断という地点に立ち、デザイナーズベイビーをも現実のものとしつつある。また延命技術の進歩は、脳死という新しい死を発見し、生の終末を混乱させてもいる。我々はどこまで命に手を加えることが許されるのか。生命倫理と呼ばれるこの分野の問題に、我々はどのような立場を採るべきなのか。私たちの従うべき倫理、その基礎となるはずの「同情」をキーワードとして考えてみたい。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:54 | 論文
ご理解の上でお読み下さいお断り

Ⅰ.脳死を死と受け入れるべきか

現代の日本では、人間は病院で生まれ病院で死ぬ。少なくとも医師に死亡診断書を書いてもらわなければ、戸籍上死ぬことが困難である。我々の生命には、医療が深く関わり、既に別ち難く結びついている。しかし、命というものを、医療技術や医師の都合によって支配されることは我々にとって大きな不幸ではないだろうか。幸福な生の締めくくりとしての幸福な死。私たちが真に獲得しなければ為らないのは、長寿よりも良き臨終ではないだろうか。QOLを考える上で、質の高い終末を模索する時が来ているだろう。
20世紀の前半までは、人間の死とは心臓の停止とほぼ同義であった。日本では10年前まで、呼吸、心拍、反射の三徴候のみが死の基準であった。心臓が止まれば血液が循環しなくなり、酸素、栄養とも欠乏し速やかに肉体はその活動を停止する。心停止を人間の死と見なすことは私たちの常識であり、感覚的に受け入れられ続けてきた。しかし1997年に臓器移植法が制定されて以来日本では死の地点が曖昧にされてしまった。同法の施行と同じくして、臓器提供意思表示カードというものが学校からコンビニエンスストアに至る多くの場所で配布されるようになった。そのカードには3つの大きな選択肢が挙げられている。

1、 私は、脳死の判定に従い、脳死後、移殖の為に○で囲んだ臓器を提供します。
2、 私は、心臓が停止した死後、移殖の為に○で囲んだ臓器を提供します。
3、 私は、臓器を提供しません。

 ここに脳死と心停止死という二つの死が立ち顕れた。そして自ら臓器提供を望むドナーは、自らの死の地点を選ばなければならなくなった。
脳死とは「全脳機能の不可逆的停止」であると言われる。自発呼吸などの機能が停止し、再び快復することのない地点が脳死である。基本的に脳死に陥るのは人工呼吸器を使用している場合に限られる。人工呼吸器が無ければ脳死は即ち心停止死と同義である。自発呼吸の能力を失っても、人工呼吸器によって身体を維持できている状態が脳死である。その状態は長ければ100日を越えて維持することができるそうだ。この脳死状態にある彼を従来の三徴候に拠って判断すればどうなるだろうか。反射は既に失われている。呼吸は自発的には無理だが機械によって行われている。そして心拍は正常である。これでは彼を死体として扱うことはできない。しかし彼の全脳機能は既に失われていて、再び自発呼吸をすることも、意識を取り戻すことも最早あり得ない。私たちは、彼に対してどのように接するべきだろうか。脳死に対して、倫理的に正しい向き合い方とはどのようなものだろうか。
日本で脳死を含む死後、自分の臓器を他者へ提供しようとすると、まず書面で意思表示をしておくことが必須の条件である。そして脳死或いは心停止死が宣告されると、家族がある場合、彼らが同意して初めて移殖が行われる。言い換えれば、本人が臓器提供の意思を示して、それに反対する家族が無い場合にのみ移殖が行われるのである。これはどこの国でも原則的にそうなっているようだが、死者の身体は本人だけのものではなく、同時に家族のものでもあるということを示唆している。家族には、遺族として死者の亡骸をそれ以上傷つけられない権利がある。
私はこの点が重要だと考える。人間は愛する人の死を受け入れるのに時間がかかるのが普通である。家族を失うことは、彼と過ごす時間を未来永劫失うことでもある。そのことを受け入れる為にこそ、殆どの社会は葬送という儀式を行うのだろう。そして葬儀には遺体が不可欠である。しかし死者から臓器を奪うことは、家族にとって遺体を奪われることと近い意味を持つのではないだろうか。それは、家族が成員の喪失から立ち直る機会を阻害することではないかと考えられる。不完全な形の遺体は、遺族にとって良くない影響を与えるだろう。そもそも、身内を失ったばかりの家族に対して、遺体を切り取って他者へ分け与えてもいいかと問うことが、残酷で無礼なことである。たとえ移殖の結果、寿命が延びたりQOLが高まる人間が複数いようとも、そのような犠牲を強いてまで移植医療は行われなければならないのだろうか。そのことによって、幸福の総量が増加すると、誰に断言できるのだろうか。
私は健康を害している人々、移殖によって健康の快復を求める人々に同情する。しかしそれ以上に、臓器の提供を求められる、死者の家族により多く同情する。彼らの苦しみは如何ほどであろうかと想像する。仮に提供される側の幸福の増大と、提供する側の不幸の増大が釣り合うとするならば、自己の健康の為に死者の臓器を利用するというレシピエントの行為、他者を健康快復の手段とした関係は、非倫理的なものとして影を落とすことになるだろう。

カントは『人倫の形而上学』の第一篇:倫理学原理論、第二部:他人に対する徳の義務について、第二節:他の人間に対する、彼らにふさわしい尊敬からの徳の義務について-(カント全集第十一巻、389項)において「すなわち、人間には、すべての他人の内に宿る人間性の尊厳を、実践的に承認する義務がある。」としている。

 私は人間が、死してなお人間で在り続けるものだと考えている。脳死と判断されたからといって、心臓が停止したからといって、さっきまで自分の家族だった者が、今から家畜と同じ肉の塊になるとは考えることができない。たとえ医師に死亡を宣告されたとしても、彼は家族や友人が彼についての記憶を失わない限り、生前と同じく彼として扱われるべきである。そして死者をも含めて、人間には他者に宿る人間性の尊厳を、実践的に承認する義務が生じるだろう。死者から臓器を移植することは、その人間性の尊厳を踏みにじるものであるし、就中脳死という、未だ身体が温かい内に死者を切り刻む行為は許されるべきではない。一体レシピエントは、遺族の前で遺体を切り開き、自ら欲する臓器を取り出すことが出来るのだろうか。もし出来たとしたら、その利己的な彼に、人間の尊厳が備わっていると言えるだろうか。私たちは、良き死を迎えるためにも、健康よりも尊厳を大切に守らなければならないのではないだろうか。そして人間の尊厳とは、他者に対する尊敬によってのみ確立されるものである。そもそも臓器移植法による脳死の定義とは「脳死で臓器提供する場合に限って、脳死を死と認める」という不可解なものである。要は臓器提供をさせる為に脳死判定をするようなものであり、脳死という死は、レシピエントにとっての利益となっても、ドナーにとっては全く利益の無い死である。自然に、善く死ぬこととは真逆な脳死を、私たちは受け容れるべきでないだろう。
 

前掲より引用

「各人は、自分の隣人からの尊敬を要求する正当な権利を持っている。そして、その代わりとして彼もまたすべての他人に対して尊敬するという責務を負うている。
  人間性そのものは尊厳である。というのは、人間は、いかなる人間によっても(他人によっても、それどころか自己自身によってさえも)たんに手段としてのみ用いられえず、つねに同時に目的として用いられなくてはならないからである。
 そして、この点こそまさに人間の尊厳(人格性)が成り立っており、それによって人間は、自からを優位に置くのである。」
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:53 | 論文
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Ⅱ.人工妊娠中絶について

現在日本では、年間34万件を越える(平成13年度、厚生労働省による統計)人工妊娠中絶が行われている。そして母体保護法で認められている中絶理由は、以下の通りである。

[医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
1.妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
 2.暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの]

 この条文を素直に解釈すれば、母体に生命の危険が及ぶ場合か、強姦によって妊娠した場合以外は人工妊娠中絶は認められないことになる。しかし、1.にある「経済的理由」に拠ってほぼ自由に中絶が行われている現状がある。そしてこの法律の目的は飽くまで「母体」の保護であって、胎児については配慮が為されていないと言える。

[(この法律の目的)第1条 この法律は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする。]

 つまり日本の法律では少なくとも受精から20週以前の生命を保護していないのである。ここに倫理的な問題があると考える。
ある女性が望まない妊娠をした場合、「育てるお金が無い」と産婦人科を訪ねれば、大抵人工妊娠中絶手術を受けることができる。そこには何の違法性も無い。しかし堕胎は殺人である。胎児は既に人間としての一歩を踏み出した存在であり、自然に成長すれば、一人の人間として誕生し、成長していくように方向づけられている。それを人間の行為によって、成長を終わらせる、断ち切ることは殺人以外の何ものでもないと言えるだろう。
私には、中絶によって小さな命を蔑ろにすることが、非常に根深い問題を含んでいると思われる。中絶を決定するのは、妊娠した当事者と、その配偶者又は配偶者に当たる男性である。彼らは中絶せずに出産した場合には、両親と成るべき人物である。
その胎児の両親に成るべき人物が、自分の子供と成るべき胎児を殺すのである。このことは倫理的に恐ろしいことであろう。
世間では、幼児が両親の虐待によって死亡すると忽ちニュースになって衆人の知るところとなる。我が子を殺した親は、悪鬼のように罵られ、晒し者になることが珍しくない。しかし、中絶によって我が子を殺した親たちが、そのように世間から責められることは殆ど聞かない。ちなみに、1994年から2004年までのおよそ10年間に新聞が報道した被害者が16歳未満の虐待死事件は293件だそうだ(東京工業大大学院・犯罪精神医学研究チームの報告に拠る)。年間30万件を越える人工妊娠中絶とは数の上では比較にならない。もちろん、必要な医療行為として中絶された妊娠もあるだろうから虐待死との比較に意味はないのかもしれないが、しかしあえて同列に考えてみたいことがある。それはどちらがより同情の対象となるかということである。
私たちは、幼児が虐待死したと聞けば、幼児の姿を想像し、殺された苦しみ、無念さを思い、心から同情することができる。犯人に対して怒りを覚えすらする。しかし、中絶手術によって殺された胎児に対しては、同じような想像や同情が沸きにくい。それは胎児が目に見える存在として、私たちに主張しないからだろう。恐らくそのことが、人工妊娠中絶を社会的に容認していると考えられる。もう少し中絶によって殺される胎児に同情することができたなら、親となるべき当事者も考えを変えたかもしれないし、周囲の人間も説得に力を尽くしたかもしれない。しかし、私たちは、殺され逝く胎児の痛みを想像することが難しい。失われ逝く小さな命に同情することが難しい。これは仕方のないことなのだろうか。
一方で中絶を女性の権利だと主張する人もいる。子供を産むか産まないかは、女性自身にそれを決定する権利があり、中絶はその選択肢であると言う。しかし、これは余りにも幼稚な理論だと感じる。確かに人間には様々なことを選ぶ権利がある。残念ながら社会情勢によって選択肢の限られている人も少なくないが、先進国、民主主義国に暮らす我々は、住居や職業、配偶者などありとあらゆるものを選択することが可能であるし、実際に選択をしている。性行為をするか否かは自由に選択できるかもしれないが、中絶はその他の行為と同じように個人の意思で選択できるものではない。そこには胎児という新しい他者の存在が関わるからである。しかも全く無力な存在として、親となるべき人間に生命を委ねているのである。その命を利己的な理由で奪うことが、どうして権利として考えられるだろうか。
中絶権を主張する人達は、親兄弟を殺すことも選択肢の中に含めるつもりだろうか。そして、親兄弟を殺さないのは、法律で禁じられているからだろうか。私は自分の家族を殺めることはしない。そしてそれと同じ理由で、私とパートナーの間に新しい命を授かることがあれば、彼を殺すこともしないだろう。
しかし中絶権を主張する人はパーソン論という理論を持ち出して権利を主張することがある。次章でパーソン論についての問題を著したい。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:52 | 論文
ご理解の上でお読み下さいお断り

Ⅲ.パーソン論への反駁

M.トゥーリーのパーソン論とは
① 「生物学的な概念としてのヒト」と「道徳的概念としてのパーソン」の外延は一致しない

② 単に「生物学的なヒト」であるだけでは生存するための権利を持つとはいえない

③自己意識を持った存在としてのパーソンのみが生存権を持つ

 以上の3点が、ごく簡単に主張をまとめたものである。
①から読めるのは、パーソン論とは一つの道徳概念であるということ。そして、このパーソンが指示するものは、生物学的な意味での人間とは、一致しないということである。②は生物学的に人間と分類される生物であっても、中には生存の権利を有しない者がいるということ。そして③では、はっきりと自己を自己と認められる存在のみが、生きることが許されるというものである。
これらは簡素ではあるが、非常に大きな問題を含んでいる。確かに、パーソン論に拠れば、人工妊娠中絶の違法性は阻却されるだろう。自己を認識できない、つまり未だはっきりと意思表示できない胎児には生存権が無いのだから、彼を殺しても罪に問われることはないということになる。これは中絶権を主張する人にとって大変便利な理論だが、果たして我々の感覚に馴染むものだろうか。極論すれば、胎児に限らず、言葉の拙い幼児や、痴呆の進んだ老人などもパーソンとしては認められない場合が考えられる。その場合も彼らには生存権が無く、由って殺しても罪に問われるべきではないのだろうか。
そもそも馬鹿げた理論だが、では我々のパーソン=人格にはどれほどの価値があるのだろうか。確かに人間とは時に理性的存在者と定義され、人格が無ければ人間らしさが無いとも言われるだろう。では理性のある人間は、理性を持たない他の生物を支配する権利、生殺与奪の権利を持っているのだろうか。人間が自己の利益の為に、他の生物を殺すことは許されていることなのだろうか。私は否と思う。
肉食動物は他の動物を殺して糧とする。草食動物は植物を、ある意味で殺して糧とする。人間は他の動物も植物も糧とし、生存の為に多くの生命を奪っている。しかし人間を含め、生物が生命を持続するために糧を得ることは、利益以前のことであると思われる。生物が生きることは自然なことであり、自然が彼を殺すまでは、生きることが義務であると考える。そして生きる為に糧を得ることも、生命の義務であろう。故に糧を得るために他の生命を殺すことは、自己を利することではないし、自然に課せられた義務であるとも言える。同様に、自己の生命を守るために、危険な他の生命を殺し、安全を確保することも自然的義務であり責められるべきことではない。
 しかし、人間だけは利己的に他の生命を犠牲にすることがある。装飾の為に毛皮を剥いで動物を殺し、快楽の為に人間をも殺す。これらの行為は他の動物と決定的に違うという意味で人間的であるが、どこまでも非倫理的である。我々には理性が備わっており、自己の行為を、倫理的判断の元で決定することができる。それににもかかわらず、利己的に他の生命を奪う行為がされる時には、彼の従った倫理そのものが否定されるべきであろう。人間は道具と言語の使用によって、他の生物から脅かされることのない存在となった。しかし、そのことで他の生物と全く別のカテゴリーに入ったと考えることは傲慢である。自然界は弱肉強食であると言われるが、強いものに許されるのは、弱いものを食べることだけである。人間が他の生物よりも強いからといって、利益の為に生命を利用しても良いという根拠にはなり得ない。生命には等しく生きる義務と権利が備わっている。人間だけが、生きるという義務を超えて、他の生物の生命に干渉するのである。そのことを確認した上で、平等な生命の一者として、復員する術を探る必要があるだろう。もしもパーソンが偉大な力を持つのだとすれば、それは他の生命を支配することではなくて、他の生命との調和を図る為に使われる力であると思われる。

「人倫の形而上学」の中で、カントは以下のような主張をしている。

[人間が、自然に与えられた能力を、あらゆる目的に対する手段として育成することは、自己自身に対する義務である]

自然に与えられた能力とは、体力や精神力が挙げられているが、私はそこに感受性、特に同情や共感の能力を含めて読むべきではないかと考えた。人間は、自分より弱いもの、困窮しているものに同情し、彼を扶助するということを自然に行うものであろう。それは社会の根幹を成すものであるし、人間の自然的素質であると信じることができる。例えば基本的な倫理として、「人を殺してはいけない」というものがある。なぜこのような倫理が成立したかということを考えると、自分が殺されたくないという利己主義と同じ程度に、殺される人が可哀想だという同情心も関わっていると感じられる。日常生活においても、事故や事件で死んだ人の報道を聞くと、多くの人が同情を表している。人間は、少なくとも同じ社会の成員であれば、他者の蒙った不利益に対して同情する能力を有している。そしてその能力は、獲得されたものではなく、生得的なものであろう。
では私たちの「同情の能力」は、どの範疇で有効なのだろうか。職場や学校で日常的に接している人であれば、彼らの不幸に対して私たちは同情することができるだろう。そして不幸の度合いによっては、それまで知らなかった人に対しても、知った途端に同情することもあるだろう。人間が相互扶助によって、幸福の総量を増加させる為には、同情の能力が不可欠である。困窮する人間に対して、同情することが出来なければ、扶助が行われることは考え難い。その点で、同情の能力は、人間の幸福にとって必要不可欠であると言える。
但し、同情する能力には個人によって差があるだろう。同じ人を見ても、同情できる者とできない者がいるのは明らかである。功利的に考えて、世の中に同情が多く発揮されたほうが、困窮をより減少させることに繋がるだろう。その意味で同情することは倫理的であるとさえ言える。同情する能力そのものは生得的であると考えられるが、やはりそれは陶冶されるべき能力でもある。同情する能力を陶冶するのは、同情と扶助によって困窮から脱した人を見聞きすることや、何よりも自分が同情、扶助されることによって困窮を脱することであろう。それらを積み重ねて、同情の能力を拡大し、扶助の契機を増加させることが、人間の幸福にとって必要なことであると考えられる。
しかし、同情の能力は陶冶されるものであると同時に、行為によって損なわれる能力でもある。自分が困窮していながら、誰の扶助も得られないと、困窮から抜け出せてもその過程で同情の能力を損なってしまうことがある。「誰も助けてくれなかったのに、どうして自分だけが誰かを助けなければいけないのか」、と考えてしまうことを非難することはできないだろう。同様に、視野を狭めてしまうと、私たちの同情する能力は損なわれてしまうのではないだろうか。自己の属する社会の範囲を狭めて、隣の国、隣の都市、隣の家の成員を全くの他者と考えてしまえば、彼らに対しては同情することが困難になってしまう。彼は彼の近しい人にだけ同情と扶助を与えることになり、疎外された人間は、困窮していても見殺しにされ兼ねない。私たちは、常に同情の能力を陶冶しつつ、それを発揮させる領域を広く保たなくてはならない。同情こそが全ての倫理的行為の源泉であると言えるだろう。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:49 | 論文
〔結論〕

 以上、生命倫理の問題について、カント倫理学に拠る回答を与えてみた。完全ではないが、今日の社会に対して一つの価値観を提示することとなればと思う。私たちは多くのものを与えられ、多くのものを選ぶことができる。しかし、選ぶべきでないもの、ただ受け容れるべきものも少なからずあることを忘れてはならない。人間には理性が備わっているが、その理性は専ら快楽の追求に使用されているように思える。それは理性を持たない他の生物よりも愚かな生き方であるように見える。人間以外の生物は、自然の中に抱かれ、流れを乱すことなく、諦観の中で生まれ死んで往くように見える。人間だけが、自然を乱し、利己的に見苦しく足掻いているのではないだろうか。私たちに必要なのは、自然の生死観と、それを受け容れる諦観ではないかと思う。求めることが失うことに繋がるなら、求めないことを選ぶ賢さも人間には備わっているのではないだろうか。そして、人間が人間として幸福な社会で生きる為には、互いが同情と扶助で結ばれることが肝要であろう。
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:48 | 論文
参考文献

レオン・R・カス『生命操作は人を幸せにするのか』2005年
ロジャー・ローゼンブラッド『中絶 生命をどう考えるか』晶文社、1996年
新田孝彦『入門講義 倫理学の視座』世界思想社、2000年
森岡正博『生命観を問い直す-エコロジーから脳死まで』1994年
I・カント『道徳形而上学の基礎づけ』以文社、1998年
カント全集・第11巻『人倫の形而上学』理想社、1969年


その他参考資料

厚生労働省統計表データベースシステム
http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/index.html
 

(社)日本臓器移植ネットワーク・ホームページ
http://www.jotnw.or.jp/index.html
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# by fishybusiness | 2007-01-21 09:47 | 論文