明けて3日目の今朝、私は死のうと思った。
理由は100近く挙げられるが、ひとつに絞ればしゃっくりが止まらなかった事だろうか。
実家の、かつて子供部屋と呼ばれていた部屋には屋根裏に物置がある。
その屋根裏へ続く扉へ、ベルトを引っ掛けて首を括る積もりだった。
ベルトを一度バックルに通し、先端に結び目を作る。
輪の中に頭を入れて、先端を扉に挟む。
後は身体を重力に任せれば、ほぼ確実に自死を達するはずだった。
私はどうして思い留まったのだろうか。
私の母は、11月に母親を亡くしている。
つまり私の祖母が亡くなった訳だ。
やっと納骨などが終わり、悲しみに暮れている時に、息子のぶら下った死体を見付けるのは可哀想だと、それが一番であった。
正直に告白すれば、死ぬ事が怖くもあった。
しかし、その恐怖を感じていた事は、すぐ背後にまで己の死が迫って居た事の証左にも思える。
ひとつだけ不思議な事があった。
私がベルトを首に掛け、足を宙に躍らせようかと思案している時に、部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。
たった一度だけ、静かに。
今考えれば風で扉が動いただけかも知れないが、その時は確かに叩く音に意思を感じた。
誰かが私の事を訪ねて来ていたのだろうか。
自殺は悪であると思う。
それは肉親や友人に著しい驚きと悲しみを与えるからである。
周囲が其の人の死を受け入れるには生前と死後に相当の準備を要する。
事故死や自殺では、生前の準備が出来ぬ事が多い。
そして事故死と自殺の最大の違いは、当事者が其れを選んだという一事である。
自殺によって近しい人を失った人は、分かりもしない理由を考え、自分を含めた誰かに責を負わせようとする。
そうでもしなければ、彼の死が齎した無力感から逃れる事が出来ないのだろう。
自殺は悪である。
しかし、時に人間にとって、最後に残された手段でもある。
苦痛から逃れるため、或いは尊厳を守るために人は自殺をする。
避けられる死は避けるべきだと思う。
しかし、自殺の中にも避けられぬものがあると、私は考えている。
理由は100近く挙げられるが、ひとつに絞ればしゃっくりが止まらなかった事だろうか。
実家の、かつて子供部屋と呼ばれていた部屋には屋根裏に物置がある。
その屋根裏へ続く扉へ、ベルトを引っ掛けて首を括る積もりだった。
ベルトを一度バックルに通し、先端に結び目を作る。
輪の中に頭を入れて、先端を扉に挟む。
後は身体を重力に任せれば、ほぼ確実に自死を達するはずだった。
私はどうして思い留まったのだろうか。
私の母は、11月に母親を亡くしている。
つまり私の祖母が亡くなった訳だ。
やっと納骨などが終わり、悲しみに暮れている時に、息子のぶら下った死体を見付けるのは可哀想だと、それが一番であった。
正直に告白すれば、死ぬ事が怖くもあった。
しかし、その恐怖を感じていた事は、すぐ背後にまで己の死が迫って居た事の証左にも思える。
ひとつだけ不思議な事があった。
私がベルトを首に掛け、足を宙に躍らせようかと思案している時に、部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。
たった一度だけ、静かに。
今考えれば風で扉が動いただけかも知れないが、その時は確かに叩く音に意思を感じた。
誰かが私の事を訪ねて来ていたのだろうか。
自殺は悪であると思う。
それは肉親や友人に著しい驚きと悲しみを与えるからである。
周囲が其の人の死を受け入れるには生前と死後に相当の準備を要する。
事故死や自殺では、生前の準備が出来ぬ事が多い。
そして事故死と自殺の最大の違いは、当事者が其れを選んだという一事である。
自殺によって近しい人を失った人は、分かりもしない理由を考え、自分を含めた誰かに責を負わせようとする。
そうでもしなければ、彼の死が齎した無力感から逃れる事が出来ないのだろう。
自殺は悪である。
しかし、時に人間にとって、最後に残された手段でもある。
苦痛から逃れるため、或いは尊厳を守るために人は自殺をする。
避けられる死は避けるべきだと思う。
しかし、自殺の中にも避けられぬものがあると、私は考えている。
#
by fishybusiness
| 2008-01-03 18:30
| 雑文