哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
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別にいいじゃないか。

5年間で3000万円弱を誤魔化して居たって、別にそんなこといいじゃないか。
年間600万円、月にすると50万円、秘書一人の給料にしか為らないじゃないか。
確かに褒められた事ではないけれど、此処まで大騒ぎする事じゃあないだろう。
社会党や共産党には言わせておけば良いけれど、自民党はどっしり構えて居ればいいじゃないか。
「不適切と言われれば其の通りなので以後気を付けます」
其れで終わる事じゃあないか。

問題は政治に金が掛かり過ぎる事だろう。
だから歳費を増やせとも言えないだろう。
日本の国会議員がみすぼらしい格好や暮らしをする訳にもいかないだろう。
小泉純一郎前首相のやうに清貧であれば素晴らしいけど、皆に其れを求める事も酷だろう。

「こうすれば良い」と簡潔に提言はできないが、兎に角騒ぐのはみっともないと思う。
大人の余裕を見せて欲しい。
月に50万くらい何だって云うんだ。
確かにちょっと誤魔化して居ましたが、其の分は他の議員よりも仕事をしましたと、自信を持って言って遣ればいいではないか。



松岡農相の架空光熱水費計上問題
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by fishybusiness | 2007-03-17 10:19 | ニュース
時時身体障害者の振りをしてみる。
何も周囲を揶揄する事が目的ではなく、身障者の気持ちを想像してみる事が目的である。

暫く前は盲の振りをしてみた。
新宿駅近くの居酒屋を出る処から、我が家のドアを開けるまで目を瞑った儘帰ってみた。
勿論友人に摑まって誘導して貰いながらではあるが。
視覚を放棄すると色色と気づく事があった。
先ず人込みの中は複数の匂いが交じり合っていると云う事。
男性の所謂加齢臭と、女性の香水の匂いと、飲食店が出す食品の匂いなど、様々な匂いが少し歩く毎に変化して往く。
視覚の無い人間にとって匂いは重要な情報だが、街中では其れが混乱して上手く機能しないようだ。
意外な事に、エスカレーターに乗るのは難しくなかった。
何処から乗るのかさえ判れば、降りる時は足元が平らに為るので戸惑う事は無い。
視覚が無くて一番怖ろしいのは駅のホームを歩く事だ。
ホームの両側には電車が往来し、もし下へ落ちればかなりの確立で命を失う。
そしてホームには人が多数往来し、誰とぶつかって跳ね飛ばされるとも知らない。
柵などが無いと思うと、出来る限りホームの上で移動はしたくないと思う。
盲が白杖を突いている理由がやっと分かった。
彼等は自分が盲であることを周知させ、注意を促しているのだ。

人間は前を歩いている人が盲であるかどうかを想像しない。
夜なのに濃い色眼鏡をして、白杖を突いている人を見て、彼を盲だと判断するのである。
色眼鏡も白杖も持って居なければ誰も彼が盲だとは思わないのだ。
其れが怖ろしいと思う。
だから身体障害者は判りやすい方が楽なのだ。
周囲から気を遣って貰えるから。
周囲に対して、自分は此処が不自由なのだと、主張しなければ中中に生き難いだろう。
しかし、出来れば目立たずに普通に暮したいと思う人も多いだろう。
どうすれば彼等の幸福が増大するのか、もう少し考えてみる必要がある。
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by fishybusiness | 2007-03-16 23:59 | 社会
どうも柳沢厚労相の発言の真意が読めない。
他の新聞社の報道では、「赤ちゃんポストは認める訳にはいかない」と云うニュアンスに読めたが、この記事では「厚労相として見解を出すのは難しいが、やるなら勝手にやってくれ」と云うニュアンスに読める。
やはり新聞社や記者の主観が相当に入っていると思える。
もちろん主観的に纏めて呉れるからこそ我々は手軽にニュースを知ることが出来る訳だけれども、然しこの問題については皆歯切れが悪い。

いざ子供がポストに捨てられた時、その子供が不幸にも死んでしまったり、捨てられた事をスキャンダラスに報道された時に責任を問われるのが怖いのだろうか。
何事も初めて遣るのは勇気が要る。
乳幼児を捨てる施設は、消極的に存在したけれども、其れを積極的に試みるのは少なくとも日本では初めてである。
勇気を持って声を上げた慈恵病院に対し、誰も責任を負ってまでサポートをしないのは、自己保身以上の理由があるのだろうか。

倫理的にはこの施設は問題が無いと言える。
功利主義的にも幸福量の増加が見込めるし、義務論的にも生命の尊重を第一義に掲げれば問題は無い。
後は正しい事を行う勇気である。
関係者の覚悟を見届けたい。

柳沢厚労相は文書での見解に否定的
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by fishybusiness | 2007-03-06 16:45 | 倫理

死の価値を認める

私は生きて居る。詰り死んでは居ない。
何故生きているのか。死んでいないから生きているのだ。
生命には生きて居る限り、生き続けようと云う慣性が働いて居る。
心臓は動き続け、数時間おきに空腹を感じる。
今現在生きて居ると云う事は、次の瞬間を生きようとする事と同義なのだ。

さて、では死とは何だろう。
死とは生きて居ない状態である。
死者は死を死に続け、再び生へと戻って来ない者共である。
一度死を跨いだ者は、生者から死者へ、此岸から彼岸へと去って逝くだけである。
では生きている我々にとって死とは何なのだろう。
人は死を畏れる。
それは自分の意識の中に世界が有るからだろうか。
自らの死に因って、世界が永遠に失われるからだろうか。
人は死の恐怖から逃れる為に、神代の昔から不老不死を夢見て来た。

私は不老不死について考えるといつも不思議な気持ちになる。
もし不老不死を得たら、代わりに死を失うのではないか。
死を失うと云う事は、同時に生をも失うのではないか。
其れは死と何が違うのだろうか。
永遠に生きて居る事と永遠に死んで居る事。
この二つの違いが、私には未だはっきりと解らない。

人は死を失っては生きられないだろう。
死の前提として生があるように、生の前提として死がある。
私たちはもっと死を慈しむべみではないか。
死を讃え、死を祝い、死を待ちながら、死を恐れ、死を悼むべではないか。
しかし決して逃れようとしては為らぬ。
逃れられぬものから逃れようとすれば、ただ無駄に苦しむだけではないか。

来るべき死を善く受け入れる事が、善き生き方でもあると私は信じる。
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by fishybusiness | 2007-03-06 03:30 | 倫理