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by fishybusiness
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23日の夜、毎日新聞から発信されたネット上のニュースの見出しである。
事件の概略は40歳の母親の運転する車から、20歳の娘が口論の末飛び出し、それを放置した母親が道路交通法の救護措置義務違反で逮捕された。
娘が車から飛び降りたときは時速50キロから60キロで走行していたそうだ。
10分後後続車が見つけて119番通報したが、首の骨を折っており、翌日未明に死亡した。
この母子は別々に暮らしていたという。

まずこのニュースを見た時に我が目を疑う人が大多数なのではないか。
少なくともどこかに事実と違う部分が含まれていないと納得はできない。
普通に考えて50キロで走ってる車から、自分でドアを開けて、飛び降りる人はいない。命の危険が迫ってでもいない限り。
そして走ってる車から、我が子が飛び降りて、それを放置する親はいない。
2重の意味で信じることができないニュースである。

母親が娘を殺害する意思を持って車から放り出し、それを隠すために虚偽の申告をしているのならまだマシだと思える。
しかしそこに書いてあることが全て事実だったらどうだろうか。
想像するのが恐ろしいことである。

人間はどこまで他者に対して無関心になれるのだろうか。
想像力の欠如と無関心の先にあるのは、このような痛ましい事件であるとしか思えない。
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by fishybusiness | 2005-04-25 03:35 | 事件
テレビニュースで凄惨な事件を知らされるたびに問うてきたことである。
何故彼(女)は罪を犯し、私は犯していないのか。

社会学的に答えを導くことは容易である。
究極的には一言で答えることもできる。

「育った環境が違う。」

しかしそれでは納得することができない。
納得というより安心と表現したほうが正確だろう。
つまり環境が違えば、私も彼と同じことをしていたかもしれない。
そのことを思うと恐ろしくなる。
今は誰かを殺めることがなくても、環境が変われば私はそれをするかもしれない。
そのことを否定することができない。

自己と他者とは明らかな隔たりがあっても、私と彼とを隔てる明確な違いはどこにも無いのだ。
唯物論的に考えれば水と炭素を主成分とする塊に過ぎず、民俗学的に考えれば同じ日本人なのだ。
何故私は彼でないのか。

犯罪者になることが怖いのではない。
自分をも含めた他者の命を、想像力を欠いたままあっさりと奪ってしまう、そのような行為をすることを畏れるのだ。
また近しい人が奪われることも。
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by fishybusiness | 2005-04-23 02:17 | 哲学