哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
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カテゴリ:雑文( 6 )

謹賀新年

明けて3日目の今朝、私は死のうと思った。
理由は100近く挙げられるが、ひとつに絞ればしゃっくりが止まらなかった事だろうか。

実家の、かつて子供部屋と呼ばれていた部屋には屋根裏に物置がある。
その屋根裏へ続く扉へ、ベルトを引っ掛けて首を括る積もりだった。
ベルトを一度バックルに通し、先端に結び目を作る。
輪の中に頭を入れて、先端を扉に挟む。
後は身体を重力に任せれば、ほぼ確実に自死を達するはずだった。

私はどうして思い留まったのだろうか。

私の母は、11月に母親を亡くしている。
つまり私の祖母が亡くなった訳だ。
やっと納骨などが終わり、悲しみに暮れている時に、息子のぶら下った死体を見付けるのは可哀想だと、それが一番であった。
正直に告白すれば、死ぬ事が怖くもあった。
しかし、その恐怖を感じていた事は、すぐ背後にまで己の死が迫って居た事の証左にも思える。

ひとつだけ不思議な事があった。
私がベルトを首に掛け、足を宙に躍らせようかと思案している時に、部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。
たった一度だけ、静かに。

今考えれば風で扉が動いただけかも知れないが、その時は確かに叩く音に意思を感じた。
誰かが私の事を訪ねて来ていたのだろうか。

自殺は悪であると思う。
それは肉親や友人に著しい驚きと悲しみを与えるからである。
周囲が其の人の死を受け入れるには生前と死後に相当の準備を要する。
事故死や自殺では、生前の準備が出来ぬ事が多い。
そして事故死と自殺の最大の違いは、当事者が其れを選んだという一事である。

自殺によって近しい人を失った人は、分かりもしない理由を考え、自分を含めた誰かに責を負わせようとする。
そうでもしなければ、彼の死が齎した無力感から逃れる事が出来ないのだろう。

自殺は悪である。
しかし、時に人間にとって、最後に残された手段でもある。
苦痛から逃れるため、或いは尊厳を守るために人は自殺をする。

避けられる死は避けるべきだと思う。
しかし、自殺の中にも避けられぬものがあると、私は考えている。
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by fishybusiness | 2008-01-03 18:30 | 雑文
「衣食足りて礼節を知る」と云う言葉がある。
もちろん其の通りだが、幸福についても礼節と同じように思う。
とりあえず明日食べるものの心配をせずに居れるようになって、はじめて人間は己の幸不幸に思い至るのではないだろうか。

功利主義の主な学説は幸福量の計算に拠って発展してきた。
総量説や選考充足説など様々だが、人間の幸福の尺度と云う意味では一致している。
しかし、その学説が複雑化してきたのは、人間が己の幸福を見出し難くなって居るからではないだろうか。
少なくとも、こうしてインターネットを利用できる立場の我々は十分に幸福であると言える。

では人間は普遍的に幸福になったのだろうか。
残念だが否と言う外無いだろう。
世界には未だ明日の生存が危うい人間が何百万と言わず存在している。
それは政治や資本の力で解決可能な不幸であると思われる。
解決を妨げるのは、国益や株主利益といった閉塞的な価値観である。

しかし、国や大企業がその価値観を転換することは非常に難しい。
歴史的に考えて、相当に不幸な出来事が起こらない限りイノベーションも起こり得ない。
今日平穏に暮せている人間は、ドラスティックな変化を恐れるものだ。
ではやはり希望は無いのだろうか。

私達は、こうして生存の心配をすることなく、人類の幸福に思いを馳せる事が出来る程度には幸福である。
だとすれば、世界のどこかに居る誰かの、圧倒的な不幸を少しだけ受け容れる事をするべきではないだろうか。
この世界には、食糧生産や治水が思うように運ばない土地が多くある。
しかし、そのような土地にも人間は生存している。
ならば、恵まれた土地に住む我々は、恵まれない土地に住む誰かの不幸を、ほんの少し肩代わりするべきではないだろうか。
幸福の増加より不幸の減少、或いは幸福の独占でなく不幸の分有が、人類全体の幸福に寄与する発想ではないだろうか。

具体的な行動を挙げるのは難しいが、フェアトレードなどはある程度有効な発想であると思われる。
他にも先進国の移民受け入れの積極化や、人材援助の拡大などが考えられる。

そろそろ進歩主義から卒業できないか。
偏狭なナショナリズムよりも、真のグローバリズムで発想する訓練を重ねなければならないだろう。
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by fishybusiness | 2007-07-08 04:19 | 雑文

友の死に想う

年少の友人が死んだ。
未だ二十三歳だった。
複雑な事情があって、私が彼の死を知ったのは命日から二週間が経とうかとして居る時だった。
既に葬式も終わって居り、お骨も彼の田舎に在り、私が得たのは彼の死と云う情報に過ぎなかった。

彼とは月に一度しか会わなかった。
同じ団体に属して居ながら、偶にしか会わない奴だった。
彼の不在は日常だった。
彼が同じ空間に存在し、交歓する事はどちからと言えば非日常だった。
だから、彼が死んでからの彼の不在も、しばらくは日常の延長に過ぎなかった。
しかし日常的な彼の不在と決定的に違うのは、彼の不在が永遠である事だ。

私は彼と再び見える事が絶対に無い。
彼は亡くなって仕舞い、無くなって仕舞った。
彼は私にとって他者ではなくなり、記憶の中にのみ存在する事になった。
しかし彼から受けた少なくない影響は、私が生きている限り失われないだろう。
死んだ彼と共に、私は死ぬまで生き続ける。

友の死から一月を経て、やっと言葉を取り戻した。
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by fishybusiness | 2007-05-04 14:40 | 雑文

cafe

一応英語でなく仏語である。
「カフェ」、「キャフェ」、「キャフェー」を足して割ったような発音だったような気がする。

久しぶりに良いカフェに行ったのです。
前々から気になっていた駅近くのカフェです。
外から覗いただけで良い店だと云う事は知れて居たのですが、入ってみると予想以上に良いお店でした。

まずお手拭などが出ません。
詰まりゴミや無駄なモノが出ないと云う事。
テーブルに小さいながら水差しを置いて呉れます。
駅前なのにネルのハンドドリップコーヒーが450円です。
ケーキは手作りで素朴な味。素材の味が楽しめます。
絵本などが何冊も置いてあります。
落ち着いた演劇のポスターなどが張ってあります。
欧米人の女性二人がケーキを食べながら話し込んで居ました。
外人が通う店は良い店だと、昔飲食店を経営していた友人から聞いたことがあり、其れは一つの基準として成り立つと私自身も思います。

数年前、カフェバーで半年ほど働いていた事があります。
其れも大変良い店で、経営的には破綻して居たけど、人と人を結う場所として、私自身も多くの友人を得る事になりました。
其のお店で出会った友人の複数と、帰省したら必ず会っているように思います。
良い店は人を繫ぎ人を結う。
確か無くなってしまった其の店のオーナーは、お客であった女性と結婚して、今は一児の父なのです。

現代思想史の授業でサルトルやメルロポンティについて遣っていた時に、キャフェーのボウイの話がありました。
内容はほとんど忘れてしまったけれど、そのフランス人のボウイは何故か今も私の中に生きているのです。

劇場とcafeが、都市に残されたオアシスなのでしょう。
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by fishybusiness | 2007-02-13 06:17 | 雑文

豊かさについて

私は貧乏である。
何故なら殆ど労働と云うことをしないからである。
いい歳をしてと、眉を顰める人も少なからず居るだろうが、私は労働は嫌いである。
労働する暇があれば、私は本を読んだり、自らの興味に従って何かしらの研究に打ち込んで居たいと思う。

もちろん現代の日本で生きて往く為には、ある程度の貨幣が必要である。
しかし、私は生きて往く事に必要な額を超えて、貨幣を有したいとは全く思わない。
もちろん本を買ったり演劇を観たりと云った、学問や芸術に関わることにも貨幣は必要なのだけれど、それは有る時に有るだけ遣えばいいと思う。
私は労働に暇を割かれることが我慢できない性質なのだ。

貨幣と云うのはその無名性に特徴が有り利点がある。
何にでも換えられて、何をも換えることが(原則的に)できるのだ。
しかし、それはつまり、自分の時間を割いて稼いだお金でも、誰かから貰ったお金でも、私が遣えば同じお金である。
他方で本は誰かに代わりに読んでもらう訳にはいかないし、演劇も誰かに代わりに観てもらう訳はいかない。
学問や経験は、変換不可能なのだ。

だから基本的に私は貨幣が嫌いである。
貨幣以上に労働が嫌いである。
お金を呉れるという奇特かつ賢明な方が居られたら、心より感謝をしたいと思う。
他者が労働によって得たお金を、私は研究に費やしたいと思う。
そしてその成果を市井に還元もしたいと思う。
私のような詰らない事を研究するのは、恐らく私しか居ないだろうから、私の研究は変換不可能であると考えている。

私が望む豊かさとは、貨幣に変換可能な財産を多く持つ事ではなく、貨幣に変換不可能な経験を多く持つことである。
そして社会へ貢献し、一人でも多くの人と善き関係を結ぶことが、私の望む豊かさである。
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by fishybusiness | 2007-02-03 02:22 | 雑文

真面目に暮らす

健康に暮す為に大切な事は何だろうかと考えてみる。

世の中には「健康マニア」とでも呼びたくなるような人が少なからず居る。
テレビの健康番組は欠かさずに見て、何某が良いと言われれば直ぐに試してみて、やたらとサプリメントを重宝し、少し変調を来すと直ぐに病院に行く。
彼らは果たして健康に暮しているのだろうか。

私は健康である。
しかし普段は殆ど野菜も食べない。
それよりも肉類を全くと云っていい程食べない。
魚は少し食べる。
乳製品も滅多に食べない。
米ばかり食べている。
栄養学的には非常に危ないと言われるかもしれないが、私はこのような食生活を1年以上続けていて、一度風邪を引いたことがあるくらいのものである。

健康に気を遣うとは、自分の身体に気を遣うことである。
それは、外部の情報でなく内部の情報に敏感になることである。
私自身の感覚に、常に注意を払って、変調を感じたら原因を探すのである。
睡眠が足りないとか、普段食べないものを食べたとか、運動が過ぎたとか、大抵は日常から外れたことをした場合に、身体にも何らかの変調が顕れる。
それに気がつけば、病気に罹る前に自分自身で改めることができるのである。

自分自身に対してもっと目を凝らし、もっと耳を澄ませることができれば、私は死ぬまで健康で居られる自信がある。
真面目に暮すとはそのような意味である。
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by fishybusiness | 2007-02-02 16:21 | 雑文