哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
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カテゴリ:社会( 11 )

競争無き社会は可能か

現代は競争社会である。
当たり前過ぎて意識に上らないが、今日の資本主義社会下では生後直ぐに競争にさらされる。
学校では学力を、職場では成績を、常に誰かと比較され優越を付けられる。
其れを受け容れないとこの社会の成員として認められないだろう。

しかし、社会にとって競争は不可欠だろうか。
資本主義社会に限れば不可欠と言えなくもない。
発展無き資本主義は資本主義に非ずとも言える。
しかし、資本主義からも競争からも自由な社会というものを、私達は思い描く事をすべきではないだろうか。
今直ぐに社会を変革せよ、革命を起こせと扇動する積りは無い。
しかし、私達の属するこの社会以外にも、私達を幸福にしてくれる社会が存し得るのではないだろうか。
そして理想的な社会を想像する事から、理想的社会の実現は始まるのではないだろうか。

敗者の存在を前提とした勝者の優越など下賎ではないか。
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by fishybusiness | 2007-12-20 02:06 | 社会
以下エキサイトニュースより一部引用

日本臓器移植ネットワークが3月に運用を始めた、インターネットで臓器提供意思を登録できるサイトは13日までに6700人を超す人々が利用した。それでも、うち3割弱の約1800人は、システム上のデータが1年後に消滅してしまう「仮登録」にとどまっており、移植ネットは「確実に意思を尊重するためのシステムなのでぜひ本登録も」と呼び掛けている。

引用は以上。
これを読んで自分を省みたら本登録をした記憶がありませんでした。
面倒ですが必要な手続きなのでしょうね。

さて3月から6月の半ばまでの3ヵ月半で6700人の仮登録というのは多いのでしょうか。
私は移植ネットワークが期待したよりも少なかったのではないかと推測します。
同団体は頭打ちとなっている臓器提供者を増やそうと様々な試みをしているようですが、なかなか効果をあげていないように思います。
そもそも臓器移植は日本人の生死観にそぐわないのではないかと思います。

日本は神仏習合の宗教観を有する文化の内にあって、死ねば死体は仏となり、殆どの人は仏式の葬式で送られます。
「遺体は尊いもの」という意識があり、それを切り開き、内臓を他人へ移植すると云う事は感覚的に受け入れ難い人も多いように想像します。
日本語には「腹を探る」「腹黒い」「腹を割って話す」などという表現もあり、人間の心は頭の中よりもむしろ腹部の内臓に宿っているものだと云う感覚もあるでしょう。
私はそのような日本人の感性を、臓器移植よりも尊いものだと考えています。

私は臓器移植に反対なのでいかなる臓器も移植しないと意思表示をしています。
それは著しく不自然な行為であり、生への執着を肯定する行為だからです。
私は以前の論文でも書きましたが、人間は自らの生よりも自然に死ぬ事を悟性によって選択すべきだと考えています。
宗教的な表現を敢えて遣うならば、生への執着を放す事が、限られた生を豊かに享受する為の必須条件であると思うのです。


㈳臓器移植ネットワークのウェブサイト


Excite エキサイト : 社会ニュース
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by fishybusiness | 2007-06-13 18:49 | 社会
時時身体障害者の振りをしてみる。
何も周囲を揶揄する事が目的ではなく、身障者の気持ちを想像してみる事が目的である。

暫く前は盲の振りをしてみた。
新宿駅近くの居酒屋を出る処から、我が家のドアを開けるまで目を瞑った儘帰ってみた。
勿論友人に摑まって誘導して貰いながらではあるが。
視覚を放棄すると色色と気づく事があった。
先ず人込みの中は複数の匂いが交じり合っていると云う事。
男性の所謂加齢臭と、女性の香水の匂いと、飲食店が出す食品の匂いなど、様々な匂いが少し歩く毎に変化して往く。
視覚の無い人間にとって匂いは重要な情報だが、街中では其れが混乱して上手く機能しないようだ。
意外な事に、エスカレーターに乗るのは難しくなかった。
何処から乗るのかさえ判れば、降りる時は足元が平らに為るので戸惑う事は無い。
視覚が無くて一番怖ろしいのは駅のホームを歩く事だ。
ホームの両側には電車が往来し、もし下へ落ちればかなりの確立で命を失う。
そしてホームには人が多数往来し、誰とぶつかって跳ね飛ばされるとも知らない。
柵などが無いと思うと、出来る限りホームの上で移動はしたくないと思う。
盲が白杖を突いている理由がやっと分かった。
彼等は自分が盲であることを周知させ、注意を促しているのだ。

人間は前を歩いている人が盲であるかどうかを想像しない。
夜なのに濃い色眼鏡をして、白杖を突いている人を見て、彼を盲だと判断するのである。
色眼鏡も白杖も持って居なければ誰も彼が盲だとは思わないのだ。
其れが怖ろしいと思う。
だから身体障害者は判りやすい方が楽なのだ。
周囲から気を遣って貰えるから。
周囲に対して、自分は此処が不自由なのだと、主張しなければ中中に生き難いだろう。
しかし、出来れば目立たずに普通に暮したいと思う人も多いだろう。
どうすれば彼等の幸福が増大するのか、もう少し考えてみる必要がある。
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by fishybusiness | 2007-03-16 23:59 | 社会
先にニュースからトラックバックした記事を書いていて、少し調べてみようと思いました。
2ちゃんねるではどの程度自殺について相談されているのか、人生相談掲示板やメンタルヘルス掲示板を覗いて見ました。
もう少し大人しく遣っているのかと思ったら、思いのほか大胆で驚きました。

メンタルヘルス板スレッド一覧

【一酸化炭素】練炭自殺【中毒死】

「自殺」をキーワードに検索すると十程度のスレッドがヒットするのですが、自殺せずに生きようとするものと、自殺について現実的に相談するものと、五分五分だと云う印象でした。

この様な場所を提供し続ける2ちゃんねるには、やはりある程度の責任があるように思います。
しかし刑事告訴に意味はあるでしょうか。
もし此れを読んで下さった貴方が法律に詳しい方ならば、アドバイスをお願いします。
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by fishybusiness | 2007-02-20 19:21 | 社会

「キレる」とは何か

所謂「キレる」と云うのは突如として怒りを爆発させることを云うのだろう。
昔は「切れる」と云うのが、頭脳明晰である事を示す一種の褒め言葉であったのだが、今はポジティブな意味は微塵も感じられない。
物量に因る言葉の侵略と呼ぶべき事例ではないだろうか。

さて、現代の意味のキレる事とキレない事を別つものは何かと考えると、繊細さが分水嶺ではないかと思う。
つまり、有り体に言って、キレる人と云うのは怒りの表現が一つしか無いのではないだろうか。
それは恰もコンピューターの二進法の様に、怒っているか怒っていないか、どちらかしか無いような人間が怒った時に、「キレた」と言われるのではないだろうか。

つい昨日のことだが、私も怒りを覚えることがあった。
駅まで歩いている道すがら、不動産屋の前を通った。
そこで不動産業者は歩道に半分営業者を乗り上げ、其れに乗せるのであろうお客二人と共に、歩道を完全に塞いで居たのだ。
此れでは通れないと思った私は、その業者に向かって「通っていいですか?」と不快感を表しつつ聞いたのだ。
そうすると彼は「どうぞ」と、私以上の不快感を示しながら道を空けた。

赦されるなら私はいい歳をしたその不動産業者を蹴っ飛ばしてやりたいし、怒鳴りつけてやりたかった。
しかし私はそれをしなかった。
何故だろうか。
それは誰の利益にも為らないと、自明であったからである。
確かに怒りは覚えたが、怒りで計算が働かなくなるほどではなかったのだろう。
そして私の感じた怒りは、「通っていいですか」という、やや慇懃無礼な言葉にしっかりと込めてやったのだ。
この場合はこれが適切であったと今でも思える。

事情が変われば私はまた違った怒りの表現をするのだろう。
暴力に訴えることは稀だと思うが、時には大声を上げるくらいのことはする。
私は怒りを表現する方法を複数知っているし、感受に関しても表現に関しても、ある程度繊細であると思う。
感じる怒りのレベルを10や20は持っていて、それぞれ異なった表現ができたなら、彼は「キレる」人とは言われないだろう。

問題は後天的な繊細さの素養であると私は思う。
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by fishybusiness | 2007-01-28 05:57 | 社会

右翼だとか左翼だとか

先日あるパーティーに出席したところ、今は引退された高名な政治家の先生にお会いしました。
私は得意になって、パーティーの後に父へ電話したのです。
「今日こんなに立派な人にお会いしたんですよ。」
と私が話すと、父は
「あいつは右翼じゃないか。僕は彼を尊敬はしていない。」
という答えが返ってきました。

この遣り取りで気付いたことがいくつかあります。
まず私の父の世代、所謂団塊の世代には年長者を敬うという感覚が弱いのではないかということです。
私は自分の親ほどの年代の人に対して、譬え気に入らないとか憎んでいたとしても、あいつと呼んだりはしないでしょう。
そしてもう一つは父は左翼なのだということです。
私の認識からすると、私のお会いした元政治家の先生は保守です。
そして保守と思しき人物を右翼と認識するのは、相対的にその人が左翼なのでしょう。
右派と左派は、飽くまで相対的な分類なのです。
団塊の世代は、もちろん全てではないでしょうが、伝統の喪失と相対主義の蔓延した社会の中に育まれたのでしょうか。

これから先の20年30年を考えると、一時的に失われていただろう伝統を、私達の手で取り戻さなければならないと思うのです。
その為には、たとえ右翼と言われようとも、保守を貫く覚悟を以って事に当たりたいと思います。
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by fishybusiness | 2007-01-17 06:28 | 社会

50年経過

シベリアに抑留された方々が祖国に還り、半世紀だそうだ。
「まだ」50年しか経っていない。

僕の祖父もシベリアに抑留されていた。
黒竜江の河岸で、陸軍の通信兵として従軍していた祖父は、ソビエトと河を挟んで睨み合っていたのです。
そしてある日、不可侵条約があったにも関わらず、前触れもなくソビエト軍は満州に侵攻し、祖父らを捕虜として捕らえ、極寒のシベリアで強制労働をさせたのです。
幸いにも祖父は生還して、祖母と結婚し父と叔母を育て、僕と弟とをこの世に生み出し、存在させてくれました。
本当に幸運で、喜ばしいことだと思います。

しかし残念ながら、抑留されたシベリアで命を落とされた方々も多くいます。
祖父に聞いた話では、死体を埋葬しようにも、土が凍っていて穴が掘れないのです。
だから焚き火をして、土を溶かしてから仲間の遺体を埋めたそうです。
突如侵略され、捕虜として不当に労働させられた祖父らの苦労を偲ぶと、涙を禁じ得ません。
本来戦争すらしてなかった外国に囚われ、命がけの劣悪な環境で労働させられたのです。

生きることは誰にとっても命がけかもしれません。
しかし、働くことは、全ての労働が命がけというわけではありません。
むしろ、命を危険にさらす仕事のほうが少ないでしょう。
しかし、シベリアでは全てが命がけであったと思うのです。
軍人や自衛官や、警官や消防署員は、国民の生命財産を守る為に、時に命がけになって働いてくれます。
それはしかし、自分を育んでくれた日本という国の為だから命をかけられるのだと思います。
全く関わりのない、卑怯で非人道的な外国の為に、それでも命がけで働かなければならなかった、被抑留者の苦労を想像すると、居た堪れないのです。

祖父は死ぬまで「ソ連はずるい、あんな国と付き合うべきじゃない」と言っていました。
尤もだと思います。

今も被抑留者がご健在であるなら、僕はその方々の為に何かお役に立ちたいと思うのです。
そして、不幸にも命を落とされた方々を偲び、靖国に手を合わせたいと思います。
そこには祖父と共にシベリアで共に苦しみ、もしかすると祖父の命を救ってくれた方が祀られているのかもしれません。
全ては私の心の内の問題ですが、それでも靖国神社があるからこそ、その方々へ感謝の気持ちを向けることができるのです。

本当にありがとうございます。

僕は幸いにも、中学生か高校の時に話を聞くことができたのです。
ソ連と睨み合って、お互いが満州とソ連がどのように素晴らしい国か、ネオンのサインボードやラジオで諜報合戦をしたそうです。
戦闘機からの機銃掃射に遭った話も聞きました。
今は祖父と話ができて本当によかったと思うのです。
亡くなってから10年になりますが、未だにシベリアのことを思うと、涙が出てきます。

正直に云って、私は国としては中国も韓国も好きではありません。ロシアに至っては云うまでもないですね。
しかし中国人でも韓国人でも、お互いがお互いの話を聞く気持ちを持てば、いつか必ず理解し合えると思うのです。
自分の祖父を大切に思う気持ちが、同じ人間に通じないはずはないと思うのです。
人間はそもそも非道な存在ではないと思います。
悲しい時代や歪な組織が、人間の人間性を損なってしまうのだと思います。
私達はこんなにも平和で恵まれた世に生きているのだから、せめて祖父の世代よりも、より人間的に生きていかなければと思うのです。

もっと祖父のことを知りたいと思ったので、田舎の祖母に電話してみました。
忘れないようにここに書きこんでおきます。

祖父は戦時中は家族と共に大阪にいたそうです。
やがて召集され、関東軍へ入隊し、黒竜江の河岸で通信兵として警備任務にあたっていたようです。
そしてポツダム宣言受諾の直前に、ソ連が侵攻して来て祖父は捕虜として捕らえられます。
おそらく何の説明もないまま、シベリア鉄道に載せられシベリアへと運ばれました。
祖父は「何日も汽車に乗せられ、どこに連れて行かれるんだろう」と不安に思っていたそうです。
シベリアでは劣悪な環境の下に、伐採の仕事などをしていたそうです。
祖母の記憶が確かなら昭和23年に祖父は帰国が叶いました。しかしそれは材木の伐採作業中に足を怪我したから、多くの人よりも早く帰れたのだそうです。(怪我のせいで正座は難しくなってしまったそうです)
京都の舞鶴港へ、曽祖父が迎えに来たそうです。
その時の祖父は、栄養失調で顔が真ん丸に腫れてしまっていたそうです。
帰国後は、シベリアでの伐採や製材という経験を皮肉にも活かして、知り合いと共に松山の中央製材という製材所で働いていたそうです。
25年にいわゆるお見合いおばさんの引き合わせで祖母と結婚しました。
孫の僕にもシベリアの話をしたくらいだから、祖母に至っては嫌になるくらいシベリアの話を聞かされたそうです。
そして本当に嫌になって、もうシベリアの話はしないでくれということになったそうです。
どうしても話さずにおれないほど辛いなら、それを乗り越えるために何とかしようとしたそうです。
そしてシベリアに行くことは叶わないでしょうから、帰国した舞鶴へ、祖母と祖父は旅行したそうです。
この場所を見て、もうシベリアのことは忘れてくれと、祖母は祖父に頼んだそうです。
しかし、決して死ぬまで忘れることのできない経験だったのでしょう。
実際に、数年前までは被抑留者の方が、時々祖父に連絡を取ろうと手紙をくれていたそうです。
祖母は、死んだことをすぐに告げられずに、何年か後にやっと電話して祖父の死を伝えたそうです。

東京に住むようになって、初めて靖国神社を訪れました。
境内の献木や貢献されたベンチなどには、部隊名や艦船の名や工廠の名が書かれていました。
その中に、シベリヤ抑留者団体の名前も見つけたのです。
だから、戦後長生きして病気で亡くなった祖父であるけども、もしかすると英霊になっていたかもしれないし、そうすれば自分も今はいない訳だし、共にご苦労された方々を、決して粗末にはできないのです。
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by fishybusiness | 2007-01-13 01:51 | 社会

対話の不可能性

彼の国は何を望んでいるのだろうか。
アメリカとの二国間協議が目的であると報道されているが、それが本懐なのであろうか。
六カ国協議を拒否し、アメリカだけを名指しするのは何故なのだろう。
私には彼の国の指導者の目論見が読めない。

そもそも国家間協議とは対話である。
自国の望むことを夫々表明し合い、妥協点を模索する営みである。
それが二国間であろうと多国間であろうと、本質的な違いは無い。
ただしアメリカとの対話を最重要することについては理解できる。
今日世界で最も攻めて来そうな国はアメリカを置いて考えられない。
北朝鮮が六カ国協議を避けるのは、妥協点が不利になると考えてのことだろうか。

しかし彼の国の外交は、主に他国から援助を引き出すことを目的としている。
自国の主張ばかりを繰り返し、他国の主張を全くと言っていいほど無視してしまう。
ミサイルを撃ってみて、これ以上撃って欲しくなければ援助しろと。
核を作ってみて、完成させて欲しくなければ援助しろと。
核実験をしてみて、落とされたくなければ援助しろと。
このような稚拙な駆け引きに、いつまで付き合わされるのだろうか。
現状までエスカレートしてしまった以上、対話は放棄すべきではないか。
国際社会は十分に門戸を開いてきた。
それを叩かなかったのは北朝鮮である。

対話を放棄すれば残された道は戦争しかなくなる。
しかし、今日まで戦争を避け続けてきた結果が先の核実験である。
戦争は何等利益を齎さないかもしれない。
しかし、戦争を放棄することの不利益は回避できるのではないか。
最早対話の可能性は失われたのだろう。
アメリカに求めることができるとすれば、二国間協議ではなくて、多対一の戦争を主導してくれることである。
季節は戦争へと移ってしまった。
一日も早く、この悲劇が終わることを切に願う。




Excite エキサイト : 国際ニュース
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by fishybusiness | 2006-10-10 00:00 | 社会
本当はこのことについては書きたくなかった。
著名な作家の文章に対して、私如きが批評をするなど僭越であると考えている。
しかし、同じ文章を読んだ多くの人が、書き手の意図を酌んでいないと感じられた。
私が抱いた感想と、全く別な方向に感じる読者が多すぎるように思った。
それはどうしてなのだろうか。
ここ数日考え続けていたことを、以下に書き記す。

『坂東眞砂子女史のエッセイ「子猫殺し」について』

この文章は論理的に破綻しているという人がいる。
確かに難解で、誤解を招きやすい構成ではあろう。
しかし、それもレトリックではないかと思える。
高名な作家である彼女が、論理的な過ちを犯したとは思い難い。
おそらく混乱しているのは、彼女ではなく我々の社会なのだ。
現代社会こそ論理的整合性を欠いているというメタファーではなかったのか。

だからこそ、読み手はもっと素直になるべきだ。
そして感情に流されることなく、冷静に要旨を読むべきだ。
坂東女史は何故子猫を殺すのか。
これははっきり書かれている。地域社会への責任を果たすためだと。
猫が無秩序に繁殖しては人間の生活環境を侵害する、だから増えすぎないように殺すのだと。
実に論理的な回答である。
これを好しとしない人からは猛烈な抗議が寄せられる。
他に選択肢があるのに、どうしてそちらを選ばないのかと。
つまり去勢/不妊手術を示唆している。
そしてなぜ手術をしないかという問いにも、坂東女史は明確な回答をしている。
彼女は猫に不妊手術をすることが納得ができないと書いている。

〈人が他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。〉

〈〉内は引用である。
坂東女史がかぎカッコつきで「生」と書いたものは、本能とか性(さが)とかいった意味を含んでいるだろう。
そして、どうして彼女以外の他人が、彼女の決定を批判できるのか。
他の生き物を尊重する態度が、どうして生命を軽視することになるだろうか。

命は等しく尊いものであると私は考えている。
しかし生きていればそれだけで尊い訳ではない。
命は自然に与えられるものであり、自然に奪われるものである。
その命のかたちを、人間の都合によって歪めてしまってもいいのだろうか。
それならいっそ殺したほうが、ある意味で命を尊ぶことにはならないだろうか。

私たちは多かれ少なかれ他の命を奪って生きている。
他の生命を喰らって生き延びている。
しかし、そのことに伴うはずの他の生命の死は、巧妙に隠されている。

私たちは何をしてはいけないのだろうか。
どれほどの人と、それを共有できるのだろうか。
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by fishybusiness | 2006-08-30 01:46 | 社会

情報について考える

今日テレビのニュース番組で温暖化について話してるキャスターを見た。
今年は温暖化の影響で海月が異常発生するそうだ。
しかし、それはどの程度的を射ているのだろうか。

テレビや新聞を見ていると、温暖化という言葉に触れない日はまずないだろう。
わが国の首相はジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて来賓に会ったりしているが、どれほどの意味があるのだろうか。
冷房の設定温度を下げる、消費電力が低下する、しかしそれが温暖化防止に繋がるのだろうか。
日本の電力は石油、石炭、天然ガスから発電されるものが62%に上る。
確かに発電量を抑えれば二酸化炭素の排出量は抑えられるのだろう。
しかし温暖化の原因が温室効果のある二酸化炭素の排出に拠るというのは、本当に信憑性のあることなのだろうか。
トラクバック先によると温室効果ガスの97%は水蒸気であって、二酸化炭素の気温に与える影響は3%以下ということになる。
それ以外にも温暖化については科学的に実証されてない部分が少なくないようだ。

化石燃料といわれる石油についても、実は生物の化石ではなく枯渇の心配はほとんどないという有力な説もある。

我々は毎日ように環境問題についての情報を浴びせられるが、その情報の信憑性を一つ一つ調べることは不可能だ。
政治的な問題になると露見するように、新聞もテレビも時には異常とも思えるほど偏った報道をしかねない媒体であることを忘れてはならない。

情報の物量にのまれることなく、何が正しい情報なのかを常に意識していないと、いつのまにか情報に踊らされることになりかねない。

「いんちき」心理学研究所
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by fishybusiness | 2005-08-20 00:49 | 社会