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by fishybusiness
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カテゴリ:倫理( 4 )

どうも柳沢厚労相の発言の真意が読めない。
他の新聞社の報道では、「赤ちゃんポストは認める訳にはいかない」と云うニュアンスに読めたが、この記事では「厚労相として見解を出すのは難しいが、やるなら勝手にやってくれ」と云うニュアンスに読める。
やはり新聞社や記者の主観が相当に入っていると思える。
もちろん主観的に纏めて呉れるからこそ我々は手軽にニュースを知ることが出来る訳だけれども、然しこの問題については皆歯切れが悪い。

いざ子供がポストに捨てられた時、その子供が不幸にも死んでしまったり、捨てられた事をスキャンダラスに報道された時に責任を問われるのが怖いのだろうか。
何事も初めて遣るのは勇気が要る。
乳幼児を捨てる施設は、消極的に存在したけれども、其れを積極的に試みるのは少なくとも日本では初めてである。
勇気を持って声を上げた慈恵病院に対し、誰も責任を負ってまでサポートをしないのは、自己保身以上の理由があるのだろうか。

倫理的にはこの施設は問題が無いと言える。
功利主義的にも幸福量の増加が見込めるし、義務論的にも生命の尊重を第一義に掲げれば問題は無い。
後は正しい事を行う勇気である。
関係者の覚悟を見届けたい。

柳沢厚労相は文書での見解に否定的
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by fishybusiness | 2007-03-06 16:45 | 倫理

死の価値を認める

私は生きて居る。詰り死んでは居ない。
何故生きているのか。死んでいないから生きているのだ。
生命には生きて居る限り、生き続けようと云う慣性が働いて居る。
心臓は動き続け、数時間おきに空腹を感じる。
今現在生きて居ると云う事は、次の瞬間を生きようとする事と同義なのだ。

さて、では死とは何だろう。
死とは生きて居ない状態である。
死者は死を死に続け、再び生へと戻って来ない者共である。
一度死を跨いだ者は、生者から死者へ、此岸から彼岸へと去って逝くだけである。
では生きている我々にとって死とは何なのだろう。
人は死を畏れる。
それは自分の意識の中に世界が有るからだろうか。
自らの死に因って、世界が永遠に失われるからだろうか。
人は死の恐怖から逃れる為に、神代の昔から不老不死を夢見て来た。

私は不老不死について考えるといつも不思議な気持ちになる。
もし不老不死を得たら、代わりに死を失うのではないか。
死を失うと云う事は、同時に生をも失うのではないか。
其れは死と何が違うのだろうか。
永遠に生きて居る事と永遠に死んで居る事。
この二つの違いが、私には未だはっきりと解らない。

人は死を失っては生きられないだろう。
死の前提として生があるように、生の前提として死がある。
私たちはもっと死を慈しむべみではないか。
死を讃え、死を祝い、死を待ちながら、死を恐れ、死を悼むべではないか。
しかし決して逃れようとしては為らぬ。
逃れられぬものから逃れようとすれば、ただ無駄に苦しむだけではないか。

来るべき死を善く受け入れる事が、善き生き方でもあると私は信じる。
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by fishybusiness | 2007-03-06 03:30 | 倫理

大切にすべきもの

沢山在り過ぎて、勿論全てを挙げることは不可能なのですが。
其れでも最近改めて確信したことを簡単に書いて置こうかと思います。

利己と利他は根源的に一であります。
自己を放棄して他者へ関係することは不可能だからです。
先ず自分を大切にすることは、全ての前提なのです。
だからこそカントは自殺の禁止を義務としたのでしょう。

そして自己の次に尊重すべきは何なのか。
矢張それは家族なのです。
自分を産み育ててくれた両親と、共に生きてきた兄弟と、それらの前提である祖父母先祖と、私の産み育てる子供達なのです。
少なくとも同じ屋根の下で暮らす家族が不幸では、自らの幸福も望めないのです。
私の幸福の為には、最小の範囲で、共に寝起きする家族の幸福が不可欠なのです。
それは徐々に拡大し、叔父叔母、従妹、それらの親兄弟へと人数を増していくべきなのです。
それは次第に隣組、町内会、市区町村、都道府県、国家を経て人類へ普遍すべき広がりの起りでもあります。

人類全体の幸福が成されなければ私の幸福も在り得ないと云ったのはアリストテレスだったかと思います。
2000年以上前から知られている、倫理の基本なのです。
しかし、現代の日本では半ば失われていると感じられます。
私達の手でそれを取り戻さなければと思います。
共時性に拘り、通時性を失った現代に生きる我々の、それは義務であるとすら思うのです。

(この文章はmixiの日記を一部編集して転載しました。)
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by fishybusiness | 2007-01-08 04:12 | 倫理

不倫はなぜ不倫か

不倫とは何だろうか。
手元にある広辞苑の第四版には
 人倫にはずれること。人道にそむこと。「―の愛」
としか書いていなかった。
一般的な感覚だと、不倫という言葉は配偶者を持つものが、配偶者以外の異性と肉体関係を含む恋愛をすることを指すのではないだろうか。

大昔から恋愛自体はどちらかといえば善いものとされてきた。
少なくとも多くの物語によって恋愛は美化され、賛美されてきたように思う。
それは未婚の男女のみではなく、すでに結婚してるものが描かれることも少なくはない。

しかしなぜ配偶者を持つというだけで、人道に背くとまで言われるのか。
それはその恋愛が周囲の人間を深く傷つけるからに他ならない。
配偶者に浮気をされた者は深く傷つくし、信頼を裏切られたと感じるだろう。
それは修復することは容易ではないし、家族の他の成員にも悪影響を与える。
その深刻な事態を精緻に想像できる者なら安易に不倫はしないだろう。

現代の日本で不倫がさほど咎められないのは、恋愛の価値が高く評価されている反面、家族の価値が軽んじられているからではないだろうか。
恋愛は確かに素敵なことであるが、それは最も近しい家族を蔑ろにしてまでも追い求めるべきではないと思う。
その価値を逆転させてしまうことが人倫に外れることと言われるのではないか。

恋愛には様々な欲望や願望が込められるように思う。
それは時に現実逃避のように見えることすらある。
不倫をする前にもっと自分のことを愛せないだろうか。
自分に与えられた、かけがえの無いものを愛せないだろうか。
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by fishybusiness | 2005-07-19 02:20 | 倫理