哲学を遣って居ます。私に御用の方はお気軽にコメントの記入に由ってご連絡下さい。トラックバックも歓迎致します。


by fishybusiness
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カテゴリ:哲学( 6 )

走ると云う哲学

哲学とは何かとよく問われる。
成る可く質問者に合わせた回答を試みるのだが、中中難しい。
取り敢えず間違いではない答え方は、「学を目的とした学」であると思う。
他の学問は其れを何かしら事象的な目的に供する事が前提と為るように思う。
然し哲学は其れ自体を目的とする。
哲学を遣っても経営は上手く往かないし、機械の設計も出来ない。
純粋に知る事、学ぶ事を目的とした場合にのみ哲学は成立し得ると考えている。

さて、だとしたらどうして走る事は哲学なのか。
別に走ったからと云って哲学を遣った事にはならない。
然し走ると云う行為の中には哲学的要素が多分に在る様に思う。

但し約束に遅刻しそうになって走るとか、暴漢から逃れる為に走るとか、友人の命を救う為に走るとか、明確な目的を持って走ってしまっては哲学は不可能である。
ただ走る為だけに走らなければ為らない。
移動が目的でもなく、健康維持が目的でもなく、ただただ走る為にのみ走る事をすれば、其処にはある種の哲学が発生すると考えられる。
地面を踏んで、地面を蹴って、足を出して、腕を振って、息を切らせながらただただ前へと走り続ける。
見える風景の楽しみや、運動其のものの快感をも忘れて、純粋に走る事にのみ耳を傾ければ、其処に哲学はあるだろう。
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by fishybusiness | 2007-02-20 22:59 | 哲学

現代に於ける哲学の方法

今日哲学を遣ると言えば何を指示するのだろうか。
大学の哲学科で学ぶことだろうか。
大学院で哲学を専攻することだろうか。
市井で哲学書を読み耽ることだろうか。
私はどれも定義として不完全であると思う。

哲学とは孤独な思索と、他者との対話を必要とする。
孤独な思索は何処に於いても可能だが、他者との対話が今日では困難に為ってしまった。
全ての人間が互いに全き他者でありながら、膨大な数のカテゴリーに属し、同質者として他者性を捨象した関係を維持している。
現代人は他者を畏れているのだろう。
他者との関わりによって、自己の定立が脅かされることを畏れているのだろう。

しかし哲学を遣る為には他者を求めなければならない。
仮に大学の哲学科に居たとしても、同じ学科、同じ大学の人間は、全き他者と成り得るだろうか。
可能性はあるだろうが、それは楽観できるほど高くはない。
私達は、出来るだけ自分と隔てられた者との対話を求めなければいけない。

皮肉な事に、インタネッツを始めとした情報処理技術が、他者との紐帯と成ってくれるようだ。
匿名の掲示板、実名のコミュニティスペース、そして無料の音声通話ソフト。
これらが組み合わさって、私達は全き他者と繋がることができる。
もし現代に哲学が可能であれば、そこから新しい哲学は生み出されるのだと、私は信じることができる。
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by fishybusiness | 2007-01-30 13:39 | 哲学

全ては一である。


奇しくも昨日は1月11日。1と云ふ数字の並ぶ日でした。

「一」を「いち」でなく「いつ」と読むのは哲学を遣っている者の自己満足と云ふか、趣味の世界でしょうね。
完全であることを「全き某」とか言うのも私の好む表現です。
親と話す時にも同類の言葉を遣うのですが、「わざと難しい言葉を遣って、自分の知識をひけらかしたいのだろう」と言われました。
違うのです。
少なくとも自分の親へ向けて知識をひけらかして何の得があるでしょう。
それは言葉を真摯に遣いたいだけなのです。
「名言」と「金言」と「箴言」が夫々少しずつ意味を異にする様に、私にとって「完全な形」と「全き形」は意味を異にしているのです。
少しでも私の思念を表現しようと苦心して、少しでも実情に近い言葉を選ぼうとして、結果的に日常会話の域を出る言葉を多用して仕舞うのです。

前置きが長くなりました、今日のテーマは「全ては一である」と云うことです。
しかしこの事について説明をすると、説明しただけ事象が細分化して仕舞うので、理解するのでなく経験するしかないのだと思いもします。
最近よく学友と話すのですが、「身体」と「精神・心・意識」と「魂」とは別様に捉えることが可能ではあるが、それらは本来一つのものであるのです。
Dimensionと云う英単語がしっくり来るのですが、身体もこころも、人間のある側面しか捉えては居ないのです。
全体を描写する巧い言葉は無く、しかも本来的に言葉という記号に変換することが不可能な存在が人間や生命であると思ふのです。

(この文章はmixiで公開した日記を一部改訂して投稿しました。)
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by fishybusiness | 2007-01-12 03:10 | 哲学

身体についての雑感

我々にとって身体とは何だろうか。
所謂健常者であれば、自分の四肢を自由に動かすことができる。
或いは自由に動かすことができるのだと思っている。
しかし限界もある。
関節は逆向きには曲がらないし、100mを5秒で走ることも不可能だ。

「親から貰った身体に傷をつけることはできない」という言い回しがある。
本当だろうか。
我々が今、こうして使役している身体は親から授けられたものなのだろうか。
出生の瞬間は私を形づくる殆どのモノが母親から譲り受け、引き継いだものだろう。
しかし、10年、20年と生活をして、日々の糧を自分で選択し、獲得してきたこの身体は、最早自分のものでしかないのではないだろうか。

もし両親が、私の身体を、私のものだと認めてくれるのならば、私は私自身の為に、最大限の利益を私の身体から得たいと思う。
では私の身体が私に与える最大の利益とは何だろうか。

身体によって快楽を得ることは一つの利益だろう。
美食やセックスによって得られる快楽は非常に甘美なものである。
しかし快楽に身を委ねることが、身体の最高の使用法なのだろうか。

人間には五感と呼ばれる感覚が備わっている。
そして五感には数えられないような、繊細な感覚も存在する。
それらを極限まで発達させ、世界の在り様を感受することが、身体が行う最も善いことではないかと思われる。
あらゆる障壁を退け、全き感受性で世界と触れ合うことが、身体の使用方として最高のものである。
今日の私はそう信じている。
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by fishybusiness | 2006-09-18 14:38 | 哲学

時間について

私達は普段時間の中に生きている。
時間は止まることなく、一定の速さで流れるものとされている。

工場では限られた時間にどれだけの製品を生産することができるかに腐心する。
労働者は、決められた時間を働きそれに応じた給与を受け取る。
消費者はサービスを買い、時間に比例してその料金を支払う。
時間は人を成長させ、老いさせ、やがて死に至らしめる。

しかし、私が生まれてから間断なく流れ続け、常に意識される時間というものを私は見たことがない。
時間とは何だろうか。

我々は時間を知ろうとするときに時計を見る。
生活の中には多くの時計がある。
パソコンの中、壁、棚の上、携帯電話、カメラの中、キッチンタイマー。
しかし一体何を計っているのだろうか。

現在最も正確な時計はセシウム原子時計であるとされる。
「秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」と定義されている。

今こうしてパソコンに向かっているときもセシウム原子は私達の時を作り出している。

しかしどうしても、セシウム原子などという目に見えない、触れられないものに時を定義されるのは素直に納得することができない。
原子が放射線を出そうと吸収しようと、そのことが植物を生長させ、動物を産み落とす訳ではない。
時間とは人が約束をするためのものではなく、命を司るものであるはずなのに。

両親から生まれ、成長してきた今日までを数字に置き換えることには意味を見出せない。
「人生は後ろ向きに理解されるが、前向きに進んでいく」
キルケゴールの言葉に時間を触覚的に理解するヒントがあるように思える。
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by fishybusiness | 2005-05-15 03:10 | 哲学
テレビニュースで凄惨な事件を知らされるたびに問うてきたことである。
何故彼(女)は罪を犯し、私は犯していないのか。

社会学的に答えを導くことは容易である。
究極的には一言で答えることもできる。

「育った環境が違う。」

しかしそれでは納得することができない。
納得というより安心と表現したほうが正確だろう。
つまり環境が違えば、私も彼と同じことをしていたかもしれない。
そのことを思うと恐ろしくなる。
今は誰かを殺めることがなくても、環境が変われば私はそれをするかもしれない。
そのことを否定することができない。

自己と他者とは明らかな隔たりがあっても、私と彼とを隔てる明確な違いはどこにも無いのだ。
唯物論的に考えれば水と炭素を主成分とする塊に過ぎず、民俗学的に考えれば同じ日本人なのだ。
何故私は彼でないのか。

犯罪者になることが怖いのではない。
自分をも含めた他者の命を、想像力を欠いたままあっさりと奪ってしまう、そのような行為をすることを畏れるのだ。
また近しい人が奪われることも。
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by fishybusiness | 2005-04-23 02:17 | 哲学