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by fishybusiness
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『同情による生命倫理へのアプローチ』Ⅰ節

ご理解の上でお読み下さいお断り

Ⅰ.脳死を死と受け入れるべきか

現代の日本では、人間は病院で生まれ病院で死ぬ。少なくとも医師に死亡診断書を書いてもらわなければ、戸籍上死ぬことが困難である。我々の生命には、医療が深く関わり、既に別ち難く結びついている。しかし、命というものを、医療技術や医師の都合によって支配されることは我々にとって大きな不幸ではないだろうか。幸福な生の締めくくりとしての幸福な死。私たちが真に獲得しなければ為らないのは、長寿よりも良き臨終ではないだろうか。QOLを考える上で、質の高い終末を模索する時が来ているだろう。
20世紀の前半までは、人間の死とは心臓の停止とほぼ同義であった。日本では10年前まで、呼吸、心拍、反射の三徴候のみが死の基準であった。心臓が止まれば血液が循環しなくなり、酸素、栄養とも欠乏し速やかに肉体はその活動を停止する。心停止を人間の死と見なすことは私たちの常識であり、感覚的に受け入れられ続けてきた。しかし1997年に臓器移植法が制定されて以来日本では死の地点が曖昧にされてしまった。同法の施行と同じくして、臓器提供意思表示カードというものが学校からコンビニエンスストアに至る多くの場所で配布されるようになった。そのカードには3つの大きな選択肢が挙げられている。

1、 私は、脳死の判定に従い、脳死後、移殖の為に○で囲んだ臓器を提供します。
2、 私は、心臓が停止した死後、移殖の為に○で囲んだ臓器を提供します。
3、 私は、臓器を提供しません。

 ここに脳死と心停止死という二つの死が立ち顕れた。そして自ら臓器提供を望むドナーは、自らの死の地点を選ばなければならなくなった。
脳死とは「全脳機能の不可逆的停止」であると言われる。自発呼吸などの機能が停止し、再び快復することのない地点が脳死である。基本的に脳死に陥るのは人工呼吸器を使用している場合に限られる。人工呼吸器が無ければ脳死は即ち心停止死と同義である。自発呼吸の能力を失っても、人工呼吸器によって身体を維持できている状態が脳死である。その状態は長ければ100日を越えて維持することができるそうだ。この脳死状態にある彼を従来の三徴候に拠って判断すればどうなるだろうか。反射は既に失われている。呼吸は自発的には無理だが機械によって行われている。そして心拍は正常である。これでは彼を死体として扱うことはできない。しかし彼の全脳機能は既に失われていて、再び自発呼吸をすることも、意識を取り戻すことも最早あり得ない。私たちは、彼に対してどのように接するべきだろうか。脳死に対して、倫理的に正しい向き合い方とはどのようなものだろうか。
日本で脳死を含む死後、自分の臓器を他者へ提供しようとすると、まず書面で意思表示をしておくことが必須の条件である。そして脳死或いは心停止死が宣告されると、家族がある場合、彼らが同意して初めて移殖が行われる。言い換えれば、本人が臓器提供の意思を示して、それに反対する家族が無い場合にのみ移殖が行われるのである。これはどこの国でも原則的にそうなっているようだが、死者の身体は本人だけのものではなく、同時に家族のものでもあるということを示唆している。家族には、遺族として死者の亡骸をそれ以上傷つけられない権利がある。
私はこの点が重要だと考える。人間は愛する人の死を受け入れるのに時間がかかるのが普通である。家族を失うことは、彼と過ごす時間を未来永劫失うことでもある。そのことを受け入れる為にこそ、殆どの社会は葬送という儀式を行うのだろう。そして葬儀には遺体が不可欠である。しかし死者から臓器を奪うことは、家族にとって遺体を奪われることと近い意味を持つのではないだろうか。それは、家族が成員の喪失から立ち直る機会を阻害することではないかと考えられる。不完全な形の遺体は、遺族にとって良くない影響を与えるだろう。そもそも、身内を失ったばかりの家族に対して、遺体を切り取って他者へ分け与えてもいいかと問うことが、残酷で無礼なことである。たとえ移殖の結果、寿命が延びたりQOLが高まる人間が複数いようとも、そのような犠牲を強いてまで移植医療は行われなければならないのだろうか。そのことによって、幸福の総量が増加すると、誰に断言できるのだろうか。
私は健康を害している人々、移殖によって健康の快復を求める人々に同情する。しかしそれ以上に、臓器の提供を求められる、死者の家族により多く同情する。彼らの苦しみは如何ほどであろうかと想像する。仮に提供される側の幸福の増大と、提供する側の不幸の増大が釣り合うとするならば、自己の健康の為に死者の臓器を利用するというレシピエントの行為、他者を健康快復の手段とした関係は、非倫理的なものとして影を落とすことになるだろう。

カントは『人倫の形而上学』の第一篇:倫理学原理論、第二部:他人に対する徳の義務について、第二節:他の人間に対する、彼らにふさわしい尊敬からの徳の義務について-(カント全集第十一巻、389項)において「すなわち、人間には、すべての他人の内に宿る人間性の尊厳を、実践的に承認する義務がある。」としている。

 私は人間が、死してなお人間で在り続けるものだと考えている。脳死と判断されたからといって、心臓が停止したからといって、さっきまで自分の家族だった者が、今から家畜と同じ肉の塊になるとは考えることができない。たとえ医師に死亡を宣告されたとしても、彼は家族や友人が彼についての記憶を失わない限り、生前と同じく彼として扱われるべきである。そして死者をも含めて、人間には他者に宿る人間性の尊厳を、実践的に承認する義務が生じるだろう。死者から臓器を移植することは、その人間性の尊厳を踏みにじるものであるし、就中脳死という、未だ身体が温かい内に死者を切り刻む行為は許されるべきではない。一体レシピエントは、遺族の前で遺体を切り開き、自ら欲する臓器を取り出すことが出来るのだろうか。もし出来たとしたら、その利己的な彼に、人間の尊厳が備わっていると言えるだろうか。私たちは、良き死を迎えるためにも、健康よりも尊厳を大切に守らなければならないのではないだろうか。そして人間の尊厳とは、他者に対する尊敬によってのみ確立されるものである。そもそも臓器移植法による脳死の定義とは「脳死で臓器提供する場合に限って、脳死を死と認める」という不可解なものである。要は臓器提供をさせる為に脳死判定をするようなものであり、脳死という死は、レシピエントにとっての利益となっても、ドナーにとっては全く利益の無い死である。自然に、善く死ぬこととは真逆な脳死を、私たちは受け容れるべきでないだろう。
 

前掲より引用

「各人は、自分の隣人からの尊敬を要求する正当な権利を持っている。そして、その代わりとして彼もまたすべての他人に対して尊敬するという責務を負うている。
  人間性そのものは尊厳である。というのは、人間は、いかなる人間によっても(他人によっても、それどころか自己自身によってさえも)たんに手段としてのみ用いられえず、つねに同時に目的として用いられなくてはならないからである。
 そして、この点こそまさに人間の尊厳(人格性)が成り立っており、それによって人間は、自からを優位に置くのである。」
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by fishybusiness | 2007-01-21 09:53 | 論文