全ては一である。
2007年 01月 12日
奇しくも昨日は1月11日。1と云ふ数字の並ぶ日でした。
「一」を「いち」でなく「いつ」と読むのは哲学を遣っている者の自己満足と云ふか、趣味の世界でしょうね。
完全であることを「全き某」とか言うのも私の好む表現です。
親と話す時にも同類の言葉を遣うのですが、「わざと難しい言葉を遣って、自分の知識をひけらかしたいのだろう」と言われました。
違うのです。
少なくとも自分の親へ向けて知識をひけらかして何の得があるでしょう。
それは言葉を真摯に遣いたいだけなのです。
「名言」と「金言」と「箴言」が夫々少しずつ意味を異にする様に、私にとって「完全な形」と「全き形」は意味を異にしているのです。
少しでも私の思念を表現しようと苦心して、少しでも実情に近い言葉を選ぼうとして、結果的に日常会話の域を出る言葉を多用して仕舞うのです。
前置きが長くなりました、今日のテーマは「全ては一である」と云うことです。
しかしこの事について説明をすると、説明しただけ事象が細分化して仕舞うので、理解するのでなく経験するしかないのだと思いもします。
最近よく学友と話すのですが、「身体」と「精神・心・意識」と「魂」とは別様に捉えることが可能ではあるが、それらは本来一つのものであるのです。
Dimensionと云う英単語がしっくり来るのですが、身体もこころも、人間のある側面しか捉えては居ないのです。
全体を描写する巧い言葉は無く、しかも本来的に言葉という記号に変換することが不可能な存在が人間や生命であると思ふのです。
(この文章はmixiで公開した日記を一部改訂して投稿しました。)
by fishybusiness
| 2007-01-12 03:10
| 哲学